2010年1月14日木曜日

「空間の旅・時間の旅」その④

「空間の旅・時間の旅」 マルグリット・ユルスナール著

お休みしていたユルスナールを再び読み始めました。

「時、この偉大なる彫刻家」
「高貴なる敗北」

前者はギリシア彫刻が辿った様相の変化について
書かれたもので、ギリシア彫刻について詳しい人には、
納得のいくものかと思われます。
詳しいどころか、無知の者には少々つらいところです。
たどたどしく想像をめぐらせながら読みました。

後者は日本人にとっては馴染みの深い話です。
コロンビア大学教授であったアイヴァン・モリスの「高貴なる敗北」の
書評で、しめくくりには、
“失われた大義のために死を選んだ人びと”としての日本人の死が
西欧にも見られるということが述べられています。
そういう批判部分もありますが、
文章の大半部分を占める日本人の“高貴なる敗北”についての理解は
大変深いものであり、ユルスナールならではと思いつつ、
モリスの著書がその基本にあるということが、
興味深く感じられます。

2010年1月13日水曜日

冬日

今季一番の寒気が入ってきたようです。
ここ奈良の平地でも雪が降り出しました。
おお、さぶっ。

こういう日は大手を振って暖かくすることができます。
コートも着たまま不器用に動きます。
足元はヒーターを入れて、
室内用ブーツを着用します。
どんなオフィスや。

冷え性の人は足元の冷えがつらいと、
以前、鹿島茂さんと岸本葉子さんの対談を読んだことがあります。
そこでは、究極の策として、スノーブーツを履くと
お二人が意気投合されていました。
まったく、暖かくなるならどんな手も厭わない、
そんなお二人に同感です。

2010年1月12日火曜日

Eric Rohmer

エリック・ロメールが亡くなったそうです。

すでに引退していたとはいえ、
その魂の火が消えてしまったのは、
あまりにも哀しいことです。

初めて自分の意思でチケットを買って、
観にいった映画が、
「緑の光線」でした。

これこそが求めていた映画だと
心が震えました。

映画を観る喜びを実感させてくれたロメール。
心からご冥福をお祈りいたします。

2010年1月11日月曜日

「世界は分けてもわからない」 続きです

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一著 講談社現代新書

著者はあくまでも科学者なのですが、
一人の人として生きている模様が
ところどころ伝わってきます。

科学者として充実した日々を送っている中で、
倦んでいた時期があったことを語っています。

そのときに出会ったのが須賀敦子さんの著書であったそうです。

“彼女の文章には幾何学的な美がある。
 柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が
 秩序をもって配置されている。
 その文様が美しいのだ。”

須賀さんの文章をこのように分析している例を他にはほとんど知りません。

続いて
“ことさら惹かれたのは、本を書くに至るまで
 彼女がずっと長い時を待っていたという事実だった。
 幾何学を可能にしたのは彼女の人生に時間である。
 彼女の認識の旅路そのものである。
 彼女の本を読むにつれ、そのたたずまいに引きこまれていった。
 彼女の歩いた道を彼女が歩いたように歩いてみたかった。
 彼女が考えたように、自らの来し方を考えてみたかった。
 彼女が静かに待ったように、私も何かが満ちるのを待ってみたかった。
 その何かを知りたくて彼女の文章を何度も読んだ。
 そしてますます彼女への想いが深まった。”
と書かれているのを読んでいて、
著者がまるで隣で語っているような気になりました。

須賀さんの読者で同じように想っている人がいる。
須賀さんの文章はそのように想わせるのです。

一人で歩いていくしかないと分かっていても、
道しるべとなるものがあれば、
心強く感じられます。
その道しるべを探すこともまた一つの旅です。
そうやって回り道をしたり、
寄り道をしたりして時を費やしていく。

須賀さんの本に出会って、
繰り返し読むうちに、
今この時を大切にしなければと
強く感じるようになりました。
その積み重ねが人生のようなものとなるのだろうと。

2010年1月10日日曜日

「世界は分けてもわからない」

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一著 講談社現代新書

こういう理系の観点から発信された世界観を考える本を読むのは
始めてです。
のっけから難しい化学記号が記されて、
不安を感じましたが、
このあたりはまだ解りやすいほうでしょう。

お恥ずかしいことにランゲルハンス島のことは
全く始めて知りました。
もうそこで戸惑ってしまいましたが、
次へ進みます。

第2章でカルパッチョの絵についての話。
須賀敦子さんの著書も関係してきます。
これは思いもかけない話だったので、
大変驚きました。
そう、ヴェネツィアにある「コルティジャーネ」は
一枚の絵の半分、もしかすると一部分だったのです。

そして、コンビニによくあるサンドウィッチに入っている
ソルビン酸の話。
シャーレの中で行われるインビトロの実験。
いかに解像度が高いインビトロの実験においても、
それは“本来、細胞がもっていたはずの相互関係が、
シャーレの外周線にそってきれいに切断されている”
ほんの一部分の切り離された情報であることを語っているのです。

その次の章では、
マップラバーとマップヘイターを例にとり、
各々の特徴から細胞はマップヘイターに似たような
動きをすることを述べています。

次の章では、
渡辺剛さんの写真を取り上げ、
境界線のあり方、文化や動植物の移植について
考察しています。

そして後半の多くの章で、
1980年初頭にコーネル大学の一つの研究室で起きた実験と事件について
割かれています。
ここが問題です。
多くの化学語彙が使われているのについていけません。
なんとなく概要はつかんだつもりでいますが、
それが問題なのです。
一部分を俯瞰的に捉えたことが、
理解したこととは言えない。

本の始めに、
イームズが1977年に発表した
映像“パワーズ・オブ・テン”が紹介されています。
小さな点を見つめた視点はどんどん上昇し、
地球からも遠く離れてゆき、宇宙空間にまで達します。
その視点はそこから逆行し、どんどん小さくなり、
人間のサイズから素粒子レベルまで縮小されていくそうです。

視点というものは位置を変えることで、
全く意味が変化してくるということでしょう。

そして著者は最後に、
“この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、
 すべてが一対多の関係でつながりあっている。
 つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として
 切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも
 存在しない。・・・この世界には、ほんとうの意味で
 因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。
 しかし、世界は分けてもわからないのである。”
と結んでいます。

ああ、難しかった。
でも読んでいると、
普段から感じていることが書かれてあったりするのです。
境界線についてはよく思っていました。
県境を越えるとき、
線を引っ張っているだけだな、と。
それにここには出てきませんが、
言葉、方言によくみられる共通項や、
地方色の強い食べ物などについても同じです。
分けなくてはどうしようないこともありますし、
もともと分けることが可能なものもあります。
でもその境目を乗り越えてみるのも一考だと思います。
そういう時には細胞感覚のマップヘイターだけでなく、
俯瞰的に見ることのできるマップラバーの視点も必要となるでしょう。
人間がその時々において、視点や思考対象の位置を変更する勇気をもつこと、
それが大切なように思えます。

2010年1月9日土曜日

風邪をひいてしまいました

どこでかかったのか、
おなかの風邪になってしまいました。
激痛。

昨日はどうにか出社して、
仕事はこなしたものの、
つらくて、
帰りに内科のお医者さんに行きました。
はいはい、と軽く診察を受けて、
お薬を出してもらって、
後は寝るだけです。

2,3日はおとなしくしています。

2010年1月8日金曜日

パソコン緊急事態

年末に喜んでitunesをインストールしてから、
どうもパソコンの様子がおかしい。
日に日に具合が悪くなっていきます。

すぐブルーの画面にエラーメッセージが現れ、
作動不能になってしまいます。
再起動しても同じことの繰り返し。

調べてみるとやはり新しく入れたソフトが合わないらしい。
itunesアレルギーのようです。

パソコンが使えないのは大変困ります。
ipodが使えなくなってしまいますが、
itunesを除去するしかなさそうです。

ため息。