2010年1月10日日曜日

「世界は分けてもわからない」

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一著 講談社現代新書

こういう理系の観点から発信された世界観を考える本を読むのは
始めてです。
のっけから難しい化学記号が記されて、
不安を感じましたが、
このあたりはまだ解りやすいほうでしょう。

お恥ずかしいことにランゲルハンス島のことは
全く始めて知りました。
もうそこで戸惑ってしまいましたが、
次へ進みます。

第2章でカルパッチョの絵についての話。
須賀敦子さんの著書も関係してきます。
これは思いもかけない話だったので、
大変驚きました。
そう、ヴェネツィアにある「コルティジャーネ」は
一枚の絵の半分、もしかすると一部分だったのです。

そして、コンビニによくあるサンドウィッチに入っている
ソルビン酸の話。
シャーレの中で行われるインビトロの実験。
いかに解像度が高いインビトロの実験においても、
それは“本来、細胞がもっていたはずの相互関係が、
シャーレの外周線にそってきれいに切断されている”
ほんの一部分の切り離された情報であることを語っているのです。

その次の章では、
マップラバーとマップヘイターを例にとり、
各々の特徴から細胞はマップヘイターに似たような
動きをすることを述べています。

次の章では、
渡辺剛さんの写真を取り上げ、
境界線のあり方、文化や動植物の移植について
考察しています。

そして後半の多くの章で、
1980年初頭にコーネル大学の一つの研究室で起きた実験と事件について
割かれています。
ここが問題です。
多くの化学語彙が使われているのについていけません。
なんとなく概要はつかんだつもりでいますが、
それが問題なのです。
一部分を俯瞰的に捉えたことが、
理解したこととは言えない。

本の始めに、
イームズが1977年に発表した
映像“パワーズ・オブ・テン”が紹介されています。
小さな点を見つめた視点はどんどん上昇し、
地球からも遠く離れてゆき、宇宙空間にまで達します。
その視点はそこから逆行し、どんどん小さくなり、
人間のサイズから素粒子レベルまで縮小されていくそうです。

視点というものは位置を変えることで、
全く意味が変化してくるということでしょう。

そして著者は最後に、
“この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、
 すべてが一対多の関係でつながりあっている。
 つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として
 切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも
 存在しない。・・・この世界には、ほんとうの意味で
 因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。
 しかし、世界は分けてもわからないのである。”
と結んでいます。

ああ、難しかった。
でも読んでいると、
普段から感じていることが書かれてあったりするのです。
境界線についてはよく思っていました。
県境を越えるとき、
線を引っ張っているだけだな、と。
それにここには出てきませんが、
言葉、方言によくみられる共通項や、
地方色の強い食べ物などについても同じです。
分けなくてはどうしようないこともありますし、
もともと分けることが可能なものもあります。
でもその境目を乗り越えてみるのも一考だと思います。
そういう時には細胞感覚のマップヘイターだけでなく、
俯瞰的に見ることのできるマップラバーの視点も必要となるでしょう。
人間がその時々において、視点や思考対象の位置を変更する勇気をもつこと、
それが大切なように思えます。

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