2012年4月19日木曜日

「振り子・・・」を読みながら


勝手に堀江敏幸さんの「振り子で言葉を探るように」を
「振り子・・・」に省略してしまいました。
まだ3章までしか読んでいませんが、読んだことのある本については
色々と思うことが出てきておしゃべりしたくなってしまいます。

第1章の“須賀敦子の「現在」”では、
須賀さんの著書を通して全体像を見通し、
その中で重要だと思われる部分を読み取ろうとされています。
須賀さんの作品の中にすっぽりとはまり込んで、
読みふけるだけの読書になりがちなので、
本を閉じた後になって、どうしてこんな文章が書けるのだろう?と
それもさらに夢うつつの状態になるのが、いつもの須賀さん本の読書です。
客観的に読むことが全くできないのです。
それがまた自分でも不思議な感覚で、
これほど我を忘れて読めることの喜びと感慨に、
ありがたくもあり、情けなくもありというところです。

堀江さんの文章の最後に結ばれている言葉は、
“求道の裏面にある謙虚さと、永久に癒されることのない孤独。 
 そういう孤独への理解と畏怖を持たなければ、 
 須賀敦子の横顔に触れることすらできないのではあるまいか。”
この文章を読み、ますます道は遠いのだと溜息をつくのでありました。

※ ※ ※

朝吹真理子著「流跡」はドゥ・マゴ賞で堀江さん自ら選出された作品ですから、
当然理解は深いと思われます。
興味本位で読んでみたのではありますが、
朝吹真理子という人の持つ硬質な態度と客観性を
言葉によって自在に操る感覚に、身をゆだねることができずにいました。
堀江さんの解説は、ほぅ、そういうことなのか、と
ほとんどテキスト状態でありました。

そういう本をもう一冊。小野正嗣著「夜よりも大きい」。
単なる夜では終わらない、大きな闇がどんどん広がっていく本です。
気味が悪いというのではないのですが、つかみどころがわからなくて、
恐ろしくなってしまいました。
これも堀江さんの解説で、補講していただきます。
キーワードは“闇”と“光”のようです。
舞台は“森”。行為は“戦い”。手元にあるのは“声”。
うーん、客観的に読むということができないと、解読はできませんね。

小説を読む時、話の中に取り込まれるように身を置いてしまうので、
周りが見えなくなってしまう欠点があります。
現代の小説の場合、そういった読み方をすることで、
全体像がつかめず、何をいいたいのかわからなくなってしまうことが
多くあります。後で振り返る余裕があればいいのですが、
よほど気に入った作品でないとそういうことはないのでした。
いろんな読み方がありますね・・・

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