2011年8月31日水曜日

「BANANA FISH」

「BANANA FISH」全11巻+1巻 吉田秋生著 小学館文庫

吉田秋生さんの「海街ダイアリー」の新刊4巻が出てとってもよかったので、
他の作品も読んでみようと、
伝説の「BANANA FISH」を読み始めたら、もう止まらない、一気読みでした。

この作品は1985年から1995年にかけて発表されたものですが、
時間差をあまり感じさせない生々しい作品です。
主人公アッシュ・リンクスの生と戦いを描いていますが、
謎解き、マフィアとの戦い、政治勢力の裏側を暴く戦略、
人間模様が絡み合い、圧巻です。

アッシュのあり得ない人物設定に、漫画の面白さも感じます。

完璧なアッシュが本当に得難い“純粋無垢な友情”を手に入れるまでの物語なのですが、
テーマがそれだけに、読後はとても切ない気持ちが押し寄せて、
少々つらさも感じます。

しばらくして、心が落ち着いた頃にもう一度、
このストリート・キッズたちとマフィアたちの抗争の場に、
身をおいてみましょうか。

2011年8月28日日曜日

「なずな」

「なずな」 堀江敏幸著 集英社

弟夫妻の生まれて3か月の女の子“なずな”を預かる
四十すぎの独身男性“菱山秀一”さん。
地方新聞の“伊都川日報”の記者です。
どのあたりなのか、伊都川付近の杵元町にある、
杵元グランドハイツに住んでいます。
そのアパートでなずなを孤軍奮闘して育てています。

アパートの管理人さん、1階にある喫茶店兼スナック“美津保”のママ、
ご近所の佐野医院のジンゴロ先生に娘さんの友枝さん、
勤め先の編集長梅さん、といきなり多くの人が登場します。
沢山の人に支えられて、なずなの面倒を見て、生活をしているのでした。

不思議なことや、変わったことは何も起こりません。
でも、小さな赤ちゃんと共に生活をするには、色々な準備、活動、お世話が必要なのでした。
そして、在宅勤務とはいえ、仕事もこなさなければなりません。
周りの人々との関わりや、出かけた先で耳に入ってきた情報などが、
小さな町の中で結びついていきます。

外国で大きな事故に遭い、入院中の弟、
原因不明の病気で入院検査中の義理の妹、
少し先の町に住む初老の父と具合が悪くなってきた母。
人間関係を見ていると、まるで私たちの日常のようです。
違いは日々成長を見せてくれる黒い瞳のなずなの存在ですね。
赤ちゃんを育てるって本当に大変なことだけれど、
主人公はちょっと距離があるからか、少々冷静な感覚でなずなを捉えているようです。
見えてはいないけれど、見えているように可愛いなずな。
赤ちゃんの彼女との日々を描くだけで、物語になる。
まったく、そういう小説です。

2011年8月24日水曜日

「追悼のしおり」その⑤

「追悼のしおり」も最後の章“フェルナンド”に来ました。

“邸館めぐり”の最後で母マチルドを亡くした8人の子供たちは、
その後ドイツ人のフロイラインに身辺を見てもらいながら、
以前と変わらぬ生活をしていたということです。
しばらくすると姉たちと同じようにフェルナンドも寄宿学校に
入りますが、ある女生徒と知り合いになってから成績が落ち、
「真面目に取り組んでいるとはほとんどいえない」と
報告書に書かれるようになり、父親から家に呼び戻されます。
寄宿学校でどのような日々が送られていたかは、
全て推測の域を越えません。
ただ、その女生徒モニック・Gとは長い付き合いとなるのです。

1890年明けてすぐ、父親アルチュールが亡くなり、
遺言によって財産は既に亡くなっていた兄ガストンを除いた7人の子供たちに
平等に分けられます。
兄たちはほとんどが不動産の財産を運用する能力を持たず、
屋敷のあったスュアルレは売却されて、
子供たちはそれぞれの考えでバラバラに散っていきます。
幼いころから足が悪い姉ジャンヌは、ブリュッセルに家を買い入れ、
フロイラインに家政を任せて余生を送ることを決心していたそうです。
フェルナンドは結婚にふさわしい男性が見つかるまで、
ジャンヌと生活することになります。

フェルナンドは社交界にデビューはしたものの、
適当なお相手は見つからず、
ようやく魅力的な男性と出会ったものの、
相手の気持ちを引き付けるまでには至らず、
傷心を慰めることもあってか、
フロイラインとドイツに旅に出かけるようになります。
旅先でも楽しいことはあったようですが、
よい実りをもたらすことはなかったのでした。
そうしてフェルナンドは28歳を迎えます。

そんな矢先に知り合いから40歳台の立派な風采の教養豊かなフランス人男性を
紹介されます。
知り合いの館で出会ったミシェルとフェルナンドは少しずつ近づいてゆきます。
そしてミシェルはもちろん考えに考え、求婚したのでした。
フェルナンドは色々とためらいますが、ミシェルの一押しにほだされ、
受け入れるのでした。
二人はドイツへ旅行します。フロイラインも一緒です。

この結婚に関し、ミシェルの先妻の16歳の息子は、
のちに物語を書いたようですが、少々皮肉な内容であったようです。
当然のことですが、フェルナンドの結婚によって新しい生活が始まります。
そのあたりをユルスナールはミシェルの視線とフェルナンドの視線を
交えながら旅行のこと、結婚式のこと、母ノエミ、息子プチ・ミシェルのことを
描いて、話は立体的になっていきます。

結婚してからも、二人はグランド・ホテルを巡る旅を続けていたようです。
リヴィエラ、スイス、イタリアの湖水地方、ヴェネツィア、オーストリア、ボヘミア、
ドイツ、プラハ・・・しかしこのような生活は費用がかさむもので、
ある夏を田舎の家、モン=ノワールのことでしょう、で過ごすことになります。

生真面目ではあるが、無気力で、気弱なところのあるフェルナンドは、
度々被写体にもなっているようなので、その姿を見ることはできます。
でも、この章を読む限り、ロマンティストで歴史が好きであったらしいフェルナンドは、
それ以上の何者であったか、全く手掛かりがありません。
ミシェルのお眼鏡にかかったということは一つの大きなことではあることでしょう。
それなのに何故か影の薄い女性であったようなのです。

この章の最後、つまりこの本の最後の一行にユルスナールの顔が描かれ、
この本は一つの環を作って終わりになります。

2011年8月21日日曜日

8月の雨

ここのところ曇り空に雨模様。
場所によってはかなりの大雨で被害も出ているようです。
本日も日曜日のお休みというのに、
いちにちしょぼしょぼと降り続きました。
暑さが一段落して楽になったと、
よい風に考えましょうか。

仕事場ではここ数日山盛りの業務で、
せっせと仕事に励みました。
当たり前のことで自慢にはならないけれど、
自分自身は達成感があって、ほっとしています。
今日は一日寝るぞと意気込んだのはいいのですが、
ほっとして寝過ぎの反動で鬱状態です。
これが結構怖いのでした。
全く何も手につかず、
ぼんやりと雨音を聞いていました。

今はトニー・ジャッドの「記憶の山荘」を少しずつ、
堀江敏幸さんの「なずな」をじんわりと読んでいます。
「記憶の山荘」は一気に読むと内容が混乱してきそうなので、
一区切りをつけながら進めていて、
「なずな」は小説なので、後半にかけてスピードが上がってきています。
楽しめる読書をしている時が一番幸せだなぁ、
夜になって落ち着いてきたので、
またページを広げることにしましょうか。

2011年8月17日水曜日

「ツバメの谷」

「ツバメの谷」 アーサー・ランサム著 神宮輝夫訳 岩波少年文庫

一年ぶりに湖に帰ってきたウォーカー家の子供たち。
なのに今年の夏は恐ろしい事態が待ち構え、
思いもかけない事故も発生し、さてどうなることか。

いえ、心配ご無用、著者はさらに面白い話を繰り広げてくれました。
子供たちはどんどんと新しい冒険を展開してくれます。
あれやこれやと入り組んで、こんな短期間にこんな楽しい体験が
できるなんて、ちょっとやりすぎちゃう?

そしていつも子供たちを見守ってくれる心優しい原住民たち。
子供たちは安心して、のびのびと夏休みを満喫するのでありました。

1930年代のイギリスの物語です。
幸せだなぁ。

2011年8月16日火曜日

「追悼のしおり」その④

「追悼のしおり」の第3章は
“万古不易の領域を目指す二人の旅人”。
この二人とは、母方の大叔父に該当するといっていいでしょう、
オクターヴ・ピルメとフェルナン・ピルメを指しています。

19世紀に生きたこの兄弟、オクターヴは作家として
5冊の本を発表していたそうです。
フェルナン(通称レモ)は、人道的社会主義者でしたが、
その破滅的ともいえる活動は限界を超え、
自らの命を絶ってしまったとのことです。

この章ではオクターヴを中心に、
その一族についての観察や、
大切な弟レモについて、
その当時のベルギーの裕福な家庭の在り様が
描かれています。

作家としてのオクターブへの言及は殊更厳しいものですが、
ユルスナールはあくまでも距離を縮めようとはしません。

先日の日経新聞にはこの「追悼のしおり」について、
作家の佐藤亜紀氏が書評を執筆されていました。
佐藤氏特有のはっきりとした大胆な口調で述べられた
この本の特徴を読むと、ぼつぼつと読んでいる自分が
少々情けなくなってきます。
この書評について言及しようとしたのは、
オクターブ・ピルメたちについて書かれた章から見え隠れする
ユルスナールの姿をしっかりと捉えられているからです。
引用しましょう。

“弟の自死を自死と書くことさえ自制させる一族の文化こそが、
 どこまでもピルメの筆を抑え、その限界を踏み越えることを
 不可能にしたと語る時、ユルスナールは来るべき世紀の動乱
 を前に消えて行く文化を愛惜しながらも、そうした文化自体
 が不可能になった時代に作品を生み出してきた自分自身を
 見据えている。”

いかがでしょうか。
この章で少々伸びきってしまった緊張感を取り戻して、
再読せねばなりません。

2011年8月10日水曜日

真夏の読書

本物の夏の到来です。
じりじりと陽が照り付けて、
土もアスファルトも焼け付いています。
麦わら帽子をかぶっているけれど、
自分もこんがりと焼けてきました。

ようやく読書のペースが上がってきました。
続いて色々と本を読み始めています。

先日から読んでいた「青い野を歩く」読了しました。
全体を見てみると、なかなか骨太い作家です。
女性なのに、男性の無骨な感じがよく表れています。
もちろん女性の感覚的な感性は生々しいくらいですし、
人間がしっかり描かれている作品ばかりでした。

ユルスナール「追悼のしおり」も再開しました。
最後の章“フェルナンド”にかかっています。
こちらはほんとに毎日数ページずつ進めています。
本音をいうとなかなか噛み砕けていないのですが、
これはヨーロッパの教養人のレベルにはとうてい届かない、
とあきらめています。
なので、内容を理解できているとは考えられないのでした。
文章と雰囲気を味わうという程度でしょうか。

そしてトニー・ジャッド「記憶の山荘」も読み始めました。
まだ最初の数ページですが、
なかなか読み応えがあります。
これからどういう話に展開していくのか楽しみなところです。

夏の間には、アーサー・ランサム「ツバメの谷」も待っています。
夏休みの定番です。

秋にはまた秋にふさわしい本があるので、
どれを読もうか、先を思ってまた楽しみなのでありました。

2011年8月7日日曜日

現代の海外小説

今「青い野を歩く」 クレア・キーガン著 岩本正恵訳 白水社
を読んでいます。
1968年生まれのアイルランドの作家の短編小説集です。
海外で数々の賞を受けていて、評価の高い作家だそうですが、
まず、タイトルが美しくて、ついつられて読み始めました。

文章がすっきりとした端正な面持ちであることが特徴ですが、
タイトルに表れているように、
使われている言葉が美しいことが際立っています。
瑞々しい表現にアイルランドの風景が目に映るようです。
登場人物もくっきりと存在感を放っており、
余韻を残すしぐさや会話、
情景描写も静けさと引き締まった空気を醸し出して、
無駄のない上質の仕上がりとなっています。

といいながら、
好みかと問われると、素直には頷くことができないのでした。
それは作品のせいではありません。
あくまでも好みの問題のようなのです。
これまでも現代の作家で気になる作品をほんの少しですが読んでいます。

エリザベス・ギルバート、ジュンパ・ラヒリ、
イアン・マキューアン、ベルンハルト・シュリンク、
ウィリアム・トレヴァー・・・
上記に挙げた作家たち、実はとても苦手なのでした。

あまりにも痛みが直接伝わってくるようで、
読んでいてつらいのです。
今回も同じような感覚です。

どうして生きていくのはこんなにつらいのに、
さらにつらい気持ちにならなければならないのでしょう?
他者の痛みを分かち合うには、
まだまだ修行が足りないようです。

例外はアリステア・マクラウド。
お気に入りの作家です。

これから読んでみたいのは、カズオ・イシグロですが、
読むことができるでしょうか・・・

2011年8月3日水曜日

「象が踏んでも」

「象が踏んでも 回送電車Ⅳ」 堀江敏幸著 中央公論新社

堀江さんがあちらこちらに書いた文章をまとめたシリーズの
4冊目です。
今回は冒頭に堀江さんの詩「象が踏んでも」で始まります。
詩についてはパスさせていただいて。

最初の一章は比較的読みやすい身近な事柄を取り上げたエッセイが中心です。
読むのが2回目のものも多くあり、
一つずつゆっくり楽しみました。
「純粋状態の白熊」については、以前このブログでも取り上げさせていただきましたが、
(2009.10.21付)
やはり何度読んでも心に訴える内容です。
他には「真夜中の庭に、ひとつの助詞を」で「トムは真夜中の庭で」について
ほぼ解説に近い内容の文章となっているのに参ってしまいました。
素朴な感覚で言えば、「濁りの朝」がとても好きです。
心当たりあり、というところでしょうか。

二章目からは少しずつ難解になり、
知識の無い話題が多いために難儀でありました。
大学入学前にモーリヤック漬けになったなんて、茫然としてしまいます。
こんな40代の人間が読んでも頭を痛めているというのに。

話題は「万葉集」からジャン・ルノワールに及び、
終章の写真のエッセイに関しては、正直にいうと全く付いていくことができませんでした。

こういった豊かな知識と謙虚な好奇心を持って生き、
自分なりの考えにまとめて、文章にできる。
一目つつましやかな方ですが、人には汲み出しきれないくらいの深さがあるのだと、
堀江さんにはいつも茫然とさせられてしまいます。