2009年9月30日水曜日

「祝祭と狂乱の日々1920年代パリ」が届きました

岩崎力さんの評論「ヴァルボワまで」を発注するときに
目に付いて同じく岩崎さんの訳による冒頭の書、
ウィリアム・ワイザー著 河出書房新社
をお取り寄せしました。

この本はLes Annèes folles(レ・ザネ・フォル)と呼ばれ、
文学、絵画、舞踊、音楽、ファッション等の中心地として栄えた
1920年代のパリを描いた作品です。

この本の邦訳が出た1986年に偶然図書館で見かけて、
手に取り、水を飲み干すように読んだことを覚えています。
それがそれまで全く関心のなかったパリとの出会いでもありました。

ここに出てくる人々に魅了され、
時代の雰囲気にも圧倒されました。
それ以来、パリとこの時代に活躍した人々について
意識をもつようになり、
色々なところでの結びつきから、
読む本も広がっていったように思います。

というわけで、数多くの出会いを作ってくれた思い出の本を
再読する機会がようやく訪れたというわけです。
今読み返したら、また違った印象をもつかもしれません。

2009年9月29日火曜日

白水社から届きました

白水社からカタログが届きました。
単行本、辞典や参考書、それから新書の3冊です。
それにあわせて【読者謝恩セール2009】の案内が!
これを待っていたのです。

数年に一度、白水社では謝恩セールをしてくれます。
ある程度まとめて購入すると、
金額別に図書カードがプレゼントされるのです。
なんて嬉しい話でしょう。
早速カタログのページをめくります。
欲しい本はいくらでもありますから、
絞込むのに悩みます。

モンテーニュ「エセー」は全7巻、これまで3巻まで出ています。
1巻は入手済みとあれば、2,3巻といきますか。
シリ・ハストヴェット「フェルメールの受胎告知」も気になるし、
ペルヌー兄弟の「フランス中世歴史散歩」も愉しそうだし、
ぜーバルトも一度読んでみたい。
ジダンの伝記もちょっと目をとおしてみたい。
uブックスになってくれれば大人買いするところです。

ずいぶん前のことになりますが、
阪神大震災の時、被災地に住んでいたのですが、
一週間もしないうちに見舞い状をくださったのが、
白水社でした。
不安の中での日々でしたので、
大変嬉しく、有難く感じられました。
白水社とのお付き合いは購入者としてだけですが、
それ以来、特別な出版社だという意識を持っています。

2009年9月28日月曜日

「黒の過程」それからの読書

なぜだか「黒の過程」を読み終えた気がしません。
ゼノンのいる世界が未だ見えるような感覚が残っています。

この本に関して気になるものを、
続いて目を通してみようと思います。

一冊は「ユルスナールの靴」須賀敦子著。
この本に限らず須賀さんの本は何度繰り返し読んでも、
すうっと通り抜けてしまう感じがします。
それはきっと須賀さんの文章のうまさによるものだと思うのですが、
ゼノンのところをもう一度読めば、きっと違う感じを得られて、
読後感も落ち着いてくるのではないかと、
何か掴めるのではないかという期待を密かにもっています。
あまり欲張るといいことはありませんが。
須賀さんの本を読むのは
読書の原点に帰ることに近い意味があるので、
それだけでも十分です。

そして堀江敏幸著「書かれる手」。
ここにユルスナール論と「ユルスナールの靴」の批評があります。

それから先日買った「ブルージュ」河原温著と
ローデンバックの「死都ブルージュ」。
時代が違うので意味はないかもしれません。

そして岩崎力さんの「ヴァルボワまで」を注文しました。
届くのが待ち遠しいです。

2009年9月27日日曜日

「黒の過程」~その⑧

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

『上海からの贈り物』 堀江敏幸
堀江さんの解説はそれだけで一つの作品として
読むことのできる内容です。
堀江さんが「黒の過程」を再読することとなった契機は
滅多とない出会いだったそうですが、
それさえも偶然を通り越した逸話のようです。
堀江さんの目を通した「黒の過程」は再び息を取り戻し、
ゼノンが未だ放浪の身にあるかのような
錯覚までしてしまいそうです。

『解題=訳者あとがきにかえて』 岩崎力
ユルスナールはこの作品を書き上げた後も、
作品とともにあったようです。
それだけ渾身の、愛着のある作品なのでしょう。
読書中にも感じていたのですが、
この作品の美しさ、高貴さを失わせずに、
日本語に置き換えるのは、
ユルスナールとその作品群を深く理解していた
岩崎氏ならではの手腕でしょう。

〔個人的な・・・〕
この本はまるで綴れ織りのような作品です。
宗教、政治、思想、科学が劇的に変化する時代を背景に、
ゼノンと彼と関係のある人々たちを
それぞれの舞台において克明に描いています。
その絵図のなかのあちらこちらにゼノンの姿が見えます。
どの人々も個性豊かなので、
後々にもその名が登場したとき、ああ、あの人がと
自然に繋がっていくのです。
どのシーンも丹念に描かれており、
実在の人も想像上の人も見事に織り交じっています。
また、ユルスナールの特徴として、
丹念に選ばれた言葉による、
情緒豊かな文章と、端的に述べられた文章との
バランスの絶妙さ、
情感と高貴さを失わない書き手の視点が、
作品の質をさらに高めていると思われます。

ゼノンは錬金術、科学をベースに哲学者として思考し、
医者として活動した人間ですが、常に自由を希求した
放浪の人でもありました。
ゼノンがとっさに感じるくだりで、
他人とは思えない全く同じ感覚に襲われたことを思い出したりする、
そんな驚きもありました。
それは、他の人にも同じことが言えるでしょう。

ブリュージュを抜け出して、海岸で過ごしたときのことを
堀江さんも留意していますが、ゼノンが全くの自然体として
世界と向き合った重要なときだったと思われます。
ゼノンが孤高の人として生を前向きに生きたことが、
人の生き方に最も関心のある人間としては重要です。
そのように生きることが一番の願いです。

2009年9月26日土曜日

「黒の過程」~その⑦

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

物語は終わりを告げました。
恩人の救いの手も功をなさず、
ゼノンは死へ旅立ちます。

ゼノンの思考や、恩人との問答は、
付いていくのが難しい部分でした。
結局、ゼノンその人のすべてを知ることは
他人には無理な話かとも思います。
ただ、ゼノンが受け入れた運命を
もう一度振り返ってみるのは、
ゼノンを理解するために必要なことでしょう。

 “接近しがたい事物の原則を、人間を象って
  作られたある個人のなかに閉じ込めるのもやはり
  冒瀆だとわたしには思えるのです。それでも意に反して
  わたしは、明日火に焼かれて煙をあげるのは、
  わたしのなかにいるなにとも知れぬ神だと感じるのです。
  あえて申し上げれば、わたしをしてあなたに《ノン》と
  言わせるのは、まさにその神なのです。”

『作者の覚え書き』
ユルスナールによって、本書の成り立ち、引用、
時代考証に必要とした書物について解説されています。
史実のなかにこのフィクションを織り込むためには、
数多くの資料を研究する必要があったはずです。
元になった作品はあったといえど、この作品を書き上げるには、
多大な時間と熱心さ、努力、知力、才能が動員されているに違いありません。

2009年9月25日金曜日

「須賀敦子が歩いた道」

「須賀敦子が歩いた道」 新潮社 とんぼの本

須賀さんが歩いた道、目に留めたもの、
心ひかれたところを丁寧に辿った本です。
重点を須賀さんの視点においた写真と解説は、
須賀さんを慕う人にはうれしいつくりになっています。

第2章では友人であった松山巌さんが、
須賀さんの著書や会話を念頭に置きながら、
イタリアを訪ねています。
須賀さんの気持ちや意図を想いはかって、
会話形式で綴られています。
本当に親しかった方たちは、
須賀さんという存在の重みを感じられていることでしょう。
本を通してしか出会いはなかったとはいえ、
読者もそういった想いに近いものがあると思います。

小さな本ですが、
須賀さんのことが凝縮されて詰まっており、
切々と胸を打ちます。

須賀さんが愛した絵画、
聖母子像を始めとする数々は、
人々の心を清らかに癒し高める芸術であることを、
須賀さんを通して教えられるように思えます。

2009年9月24日木曜日

「黒の過程」~その⑥

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

  “目の前に開けているのは、霧を通して徐々に
  陽が射してくるあの美しい朝のひとつだった。”

ゼノンは海岸に向かって歩き出します。

 “事物に逆らって自分の道を切り拓いてゆく精神の歩みが
  崇高な深遠さに人を導くのは確かだったが、
  この世にあることからなる営み自体を不可能にするものでもあった。
  ・・・変化は再生であり、ほとんど輪廻と言うべきものだった。
  ・・・この出立から完全な自由が生まれつつあった。”

美しいこの『砂丘の散歩』という章の中で、
ゼノンは深呼吸をし、瑞々しい感覚をつかみ直します。

しかしこの後、ゼノンは捕らえられます。
ゼノンは冷静に逮捕を受け入れ、
その身を牢獄に置き、
己自身と向き合うことになります。

裁きを受けるにあたり、
ゼノンの著作内容や、思想について、
彼自身も司教に弁明を行い、
同時に社会観念に相対して検討されます。

ゼノンの立場の苦しさは、
嘘偽りのない彼の人格からして、
相当なものだと思われます。

今日は336ページまで。
中途半端な読み止しで、
まとまりがつきません。

2009年9月23日水曜日

連休のお買い物

今日は「黒の過程」をお休みして、
連休中の本の買出しのご報告です。

用事を済ませて、人ごみの中を
てくてくなじみの本屋さんへ参ります。

まず手に取ったのは、
「絲的メイソウ」 絲山秋子著 講談社文庫
絲山さんの本は文庫化されたら即買いです。
単行本を買わなくて申し訳ないのですが。
絲山さんの作品で好きなのは、
「逃亡くそたわけ」と「袋小路の男」です。
明快な書きっぷりが気持ちいいです。

続いて、
「ノーサンガー・アビー」 ジェイン・オースティン著 中野康司訳 ちくま文庫
中野さんのオースティン訳が次々と出るので、嬉しい限りです。
この事態をあまり把握していなかったので、
中野さんの「高慢と偏見」は未読状態。
これでまた大好きな作品を読む楽しみが増えました。

「ブルージュ」 河原温著 中公新書
ブルージュには以前から関心があって、憧れの場所です。
そういうわけでこの本は一度読んだことがあるのですが、
今回「黒の過程」の重要な舞台ですし、
再読すべしと、手元の本の山を探すことをあきらめて、
購入しました。

「黒い山」 レックス・スタウト著 宇野輝雄訳 ハヤカワ・ミステリ
スタウトのネロ・ウルフ・シリーズが大好きです。
翻訳はされていても単行本化されていないとか、
翻訳そのものがまだされていないとかで、
未読のものがまだまだあるようです。
この手の本はとっておきですので、
しばらく寝かせてから読むことにします。

最後に
「クラウド・コンピューティング仕事術」 西田宗千佳著 朝日新書
ちょっと知りたいことがあって、購入しました。
こういう実用本が新書であるのは助かります。

今回はコンパクトにまとめました。

2009年9月22日火曜日

「黒の過程」~その⑤

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

ゼノンはブリュージュにて身を潜めながら、
終わりのない思考を重ねてゆきます。
その中で、
 
  “彼のなかではほとんど目につかない変化が起こりつつあった。”

そして、
 
 “彼自身知らないうちに地滑りが起こっていた。
  真っ暗な夜の闇のなか、流れに逆らって泳ぐ人のように、
  どれだけ岸から押し流されたかを正確に測る目印が
  彼には欠けていた。”

彼の思索の旅は過去を遡り、最も主要とする研究に向けられながら、
続けられてゆきます。

《opus nigrum》(黒の過程)とは、
彼が若い神学生のころ、ニコラ・フラメルの著作のなかで読んだ
化金石の探求のなかでもっとも困難な部分、
形態の溶解や焙焼の試みの描写であり、
人によると、人が望むと望まざるとにかかわらず、
条件が満たされさえすれば、その変化は自然に起こると
聞いていたようです。
その錬金術のこの分離について、
ゼノンは省察をめぐらせ、事物の実態をもって実験し、
その結果、錬金術という冒険の次の段階を見据えるようになり、

 “壁の亀裂の底から空想の怪獣が生まれつつあった。
  彼は大胆に肯定した。かつて大胆に否定したのと同じように。
  突然彼は足を止め、満身の力で手綱を引いた。・・・”

黒の過程という言葉が始めて出てきたのですが、
意味するところは、実際に読む必要があります。

今日読んだ「深淵」に続く章は、
ゼノンという人物とよく知り合える部分です。
引用したい部分は多すぎるので、あっさり諦めます。

ユルスナールの分身ともいえるゼノン、
冷静沈着であって、情念をも秘めた人。
慎重に身を隠していたのですが、
ついに立ち去る時がやってきます。
町を出る前日の夕方に聴いたロラン・ド・ラシュスのモテットは、
実際に存在するのでしょうか。

2009年9月21日月曜日

「黒の過程」~その④

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

今日は185ページまで。
放浪と名づけられた第一部を終え、
蟄居という名の第二部に入ったところです。

アンリ=マクシミリアンも武人として生涯を閉じ、
ゼノンも各地を巡った旅を終えて、
ブルージュに戻ってきました。

ゼノンは医者として生活を営んでいますが、
禁書の著者として追われる身を隠しています。

ユルスナールはゼノンのことを
まるで自分自身を投影したかのように描いています。
ゼノンの感じること、考えることは、
血の通った人間として実在しているかのようです。

  “自分自身もはや考えることもなかったあの子供、
  今日のゼノンと同一視するのが当然であると同時に、
  ある意味では馬鹿げてもいるあの幼い子、その子を
  彼のなかに認めるほどよく覚えている人がいるのだった。
  そう思うと、いまの生活を送っている自分に気持ちが
  励まされるように思えた。”

ユルスナールの素晴らしい点はいくつも見られますが、
そのうち、表現の美しい多様さに魅了されます。
断章の中において、平凡な表記で終わってしまうものはありません。
豊かな創造による例えなどが優雅に盛り込まれています。

 “狭い控えの間にイタリアからもたらされたものが掛けられていた。
  鱗状の枠に縁取られたフィレンツェ製の鏡で、その枠が、
  蜂の巣の六角形の穴にも似た、少しふくれ上がった二十個ほどの
  小さな鏡からなっており、・・・パリの夜明けの灰色の光のなかで、
  ゼノンはその鏡に映った自分の顔をしげしげと見つめた。・・・
  いままさに逃亡せんとしているその男は、ギリシアの人デモクリトスの
  仮説、つまり一連の囚人哲学者が生きかつ死んでいく同一の世界が、
  一連のものとして無限に存在するという仮説を思い出させた。
  その幻想に彼は苦々しい微笑を浮かべた。鏡に映った二十の小さな
  顔も、それぞれが自分のために同じ微笑を浮かべていた。
  やがてそれらが顔をなかばそらし、ドアのほうに歩みよるのが見えた。”

綴られる言葉に注意を払って、何を意図しているのか推察しながら、
物語の動向に気を配っていると、あっという間に時間が経っていきます。

2009年9月20日日曜日

「黒の過程」~その③

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

今日はゼノンの異父妹のその後の生活について続き、
そして20年ぶりに再会をはたしたアンリ=マクシミリアンとゼノンとの
間で交わされた会話の部分を読みました。

ゼノンの異父妹はマルタ。
幼いときから付き添っている乳母の影響を受け、
福音主義の道を辿ります。
そしてその地を襲った病により周りの人々を失い、
神により莫大な相続を受ける運命の印を刻印されたのでした。

 “彼女の持参金は妻としての権威を十倍にもするものであり、
  二つの巨大な財産を結合させることは、
  分別のある娘にとって、背いてはならない義務であることを
  彼女自身十分に承知していた”

そのため、彼女はアンリ=マクシミリアンの鈍重な弟と許婚の関係を
受け入れることになります。


そして、場所はインスブルック。
イタリアから密名を帯びてやってきているアンリ=マクシミリアンは、
偶然その地に潜んでいたゼノンと再会し、
互いのそれまでの歩みを語り合います。
ゼノン40歳。これまでの経験から得た教訓について、
己の独自の立場から独白します。
世の中のことがわかりはじめ、まだこれから先のことはわからないと言う。

ゼノンという人物がどのように生きたか。
考える対象は現代社会とは異なるのですが、
社会に対する疑問、人間の愚行について、これからの世界の変化についての
語りを読んでいると、細かい具体的なことや古典の引用などはわからないものの、
人間の思考の方向性に納得させられるところがあります。
 
 “空間にのびた道をうろつきながら、《彼方》がぼくを待っているということを
  《此処》で知ったから・・・ぼくはぼくなりに時間の街道で冒険を試みようと
  したということだ。・・・ぼくはそういう試みに疲れ果てたのだ。”

ゼノンのような異端の人間が行く道をゼノンはどう考えているのでしょうか。

  “われわれの蒸留瓶からいつか彗星が飛び出すことがないかどうか、
  誰が知っているだろう?われわれの省察がわれわれをどこまで
  導くかを考えると、アンリ、人がぼくらを火刑にするというのも
  さほど驚くべきことではないように思えてくるのだ。”

そして、こう述べます。

  “ぼくの書いた『未来予測』にたいする追求が、
  ますますきびしくなっているという噂だ。ぼくへの断罪について
  まだなにも決まってはいないが、しかし近々警戒を要する日々が
  来ることはまちがいない。”

ゼノンは多難の道をどう辿っていくのでしょうか。

2009年9月19日土曜日

「黒の過程」~その②

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

今日はほとんど進みませんでした。
104ページまで。

7章目では、ゼノンの母親のその後が描かれていました。
と同時に、偶像崇拝派と再洗礼派との間で争われた
凄まじい地獄絵を冷静な筆致で再現しています。

続いて、ゼノンの異父の妹が
ケルンに住む父親の親戚に引き取られていきます。
ここで、当時のカトリックの商人の生活の有り様を観ることができます。
饒舌なほどに強調された人々、これはこの小説の特徴だと思われます。

2009年9月18日金曜日

「黒の過程」~その①

「黒の過程」 マルグリット・ユルスナール著 岩崎力訳 白水社

「黒の過程」を読み始めました。
ユルスナールの本は大切に少しずつ、
コンディションを整えて、読むようにしています。
「黒の過程」を読むのは初めてですので、
慎重に歩を進めることにしましょう。

冒頭、齢16歳のアンリ=マクシミリアンが
元帥を夢見て、故郷ブルージュを発つところから始まります。
途中、一人の巡礼に出会いますが、
それは顔見知りのゼノン、彼こそが主人公です。
続いてゼノンの出生について、
青年期の出来事が語られます。

今日は82ページまで。
ゼノンという人が若い頃どのような人物であったのか、
彼が生きたのはどのような時代であったのか、
知ることができました。
時代背景についても重要なのですが、
全てを明らかにするのはよしておくことにして、
前者については、
アンリ=マクシミリアンに語った言葉により、
暗示されているかと思います。
 
  “-・・・別の人が余所でぼくを待っている。ぼくはそっちのほうへ行く。
  そして彼はまた歩きはじめた。
  -誰が? 仰天してアンリ=マクシミリアンが尋ねた。・・・
  ゼノンが振り返った。
  -Hic Zeno と彼は言った。このぼく自身さ。”

早速、ゼノンという人物に関心が湧いてきました。

ユルスナールの人物造詣も素晴らしいのですが、
表現力もまた酔わせるような素晴らしさです。

  “しかしながらゼノンは徐々に、彼らにとって、・・・
  要するにひとつの名前にすぎなくなっていった。
  いや、ひとつの名前どころか、彼ら自身の過去の、
  不完全で生命力を失った記憶のいくつかが、
  ゆっくりと腐っていく貯蔵瓶に貼り付けられた一枚の
  ラベルに過ぎなかった。二人は依然としてゼノンの
  噂をし合っていた。しかし実は彼を忘れてしまったのだった。”

2009年9月17日木曜日

「猫とともに去りぬ」

「猫とともに去りぬ」 ジャンニ・ロダーニ著 関口英子訳 光文社古典新訳文庫

ロダーニを読むのは 「チポリーノの冒険」岩波少年文庫 以来です。
明るく朗らかで楽しいイメージはそのままです。
大いに笑いました、
ケラ、ケラ、ケラ、と
心の中で。

思いもかけないユーモアにも驚きます。
生き物も、ほんとは命をもたない物達もすごく生き生きとしています。
ファンタジーってこういうふうに生まれてくるのですね。
人を幸せにしてくれる作用が嬉しいです。

“ロダーニの物語創りにおける理論書”という
「ファンタジーの文法」もやっぱり読みたいな、と思いました。
ただ、読み手が愉しいファンタジーにふさわしいかどうかという
問題は残っていますが。

2009年9月16日水曜日

ヴィルヘルム・ハンマースホイ

手元に昨年催されたハンマースホイの図録があります。

これまで、オルセー展などでふと気になる絵がありました。
絵葉書を一枚見てみるとハンマースホイ「室内、ストランゲーデ30番地」とありました。
ですので、昨年の展覧会には是非行きたかったのですが、
残念ながら機会を逸しました。
急いで図録を取り寄せて、
初めてハンマースホイという画家について知ることになりました。

ハンマースホイは19世紀のオランダで
数々の静寂に満ちた絵を描いています。
生活の中には多数の色が溢れていると思いますが、
ハンマースホイの世界はほとんどモノトーンといっていいかと思います。
そして精密なタッチで形あるものをカンバスに落とし込んでいます。

解説を読んでみると多くの謎があるようです。
構図や物の配置、あるはずの足が無い家具、
陰影のつけ方など、何故このように描かれたのか
不思議に思われることがあります。

でもバランスが悪いという印象はあまり受けません。
ハンマースホイにとって納得がいき、落ち着くように
描かれたのでしょう。
観ている者としても少々謎めいた感じと、
この静寂は心を落ち着かせてくれます。
緯度が高いためか、光が弱弱しいことも、
かえって心を震わせてくれるように思います。

気になるといえば、
モデルとして登場している妻のイーダが、
いつも悲しげに見えることでしょうか。

松浦寿輝さんの「半島」文春文庫には、
ハンマースホイの絵が使われています。
ここでは、名前がハメルショイと記載されています。
オランダではどちらの読みが正しいのでしょうか。

2009年9月15日火曜日

「正弦曲線」

「正弦曲線」 堀江敏幸著 中央公論新社

サイン、コサイン、タンジェント・・・と始まるこの本に、
いつもの堀江さんより、理系より?と焦らされました。
いえいえ、ここから正弦曲線へ展開し、
ご自身の話に結び付けていくのも、
堀江さんにとってはお手の物。

さりげなく話しを始めながら、
どこへ行くのかと着いていくと、
思いもかけない心の渦に巻き取られ、
最後には“ぽん”と据えられる、という感じが
いつもします。

その心の渦に入りこんだ時、
どこかで音が鳴るのです。
柔らかく、心地よい音色が“ぽーん”と
体の中に響き渡ります。

何の音だか、
どこで鳴っているのかわからないのですが、
何かが反応しています。
それが明らかになれば、
少しは進歩があるのでしょうが、
そのまま余韻を楽しむのも、
一考かと。

具体的に本や、音楽の話など、
教えられることも多いので、
多様に実りのある読書です。

2009年9月14日月曜日

藤塚さんのお茶碗

日に日に秋らしくなってきました。
パン党にとっても、
白いごはんが美味しい季節になりましたね。

ふだんは本を始めとして西欧文化に関心があるのですが、
食器については和好みです。

うつわ屋さんへ行くとわくわくします。

食事も好きなうつわだと一層美味しいような気がします。

手元には自然と藤塚光男さんの染付けのうつわが多くなっています。
柔らかな曲線を描いた輪郭、
青みがかった生地の色、
優しく筆を走らせた藍の影、
古伊万里の写しという図柄だそうです。
手にするだけでほっとするうつわ達です。

今日も藤塚さんのお茶碗に白いごはんをよそって、
いただきます。

2009年9月13日日曜日

PATRICK

ゴダールではありません。
スニーカーの話です。

PATRICKのスニーカーを買いました。
黒いパンチングの入ったハイカットと、
黒に白いラインの入ったスマートなラインの2足です。

PATRICKとのお付き合いは
もう20年にもなります。
テニスシューズタイプのオーソドックスなのが
一番足にぴったりするのですが、
最近は白しかなくて、困っています。

足にぴったりとあった靴とどこまでも歩いていきたい。

オーダーすればいいのでしょうが、
なかなかそういうわけにもいかず、
悩みの種です。
結局オールマイティな黒いスニーカーに頼っています。

いつか、靴マニアになれるくらい、
いろんな靴を履いてみたい。
雑誌などめくりながら、夢見ています。

2009年9月12日土曜日

堀江さんの新刊を買いに

堀江敏幸さんの新刊が出る日に、
とことこと本屋さんへ急ぎました。
今日は3冊だけと決めています。

 「正弦曲線」 堀江敏幸著  中央公論新社
 「春美・クロソフスカ・ド・ローラと歩くパリ とっておきの小さな美術館」 
  春美・クロソフスカ・ド・ローラ著 朝日新聞出版
 「奇術師」 クリストファー・プリースト著 古沢嘉通訳 ハヤカワ文庫FT

もうすぐオースティンの新刊も出るし、
来週も楽しみです。
せっせと読まねば。

2009年9月11日金曜日

ヴァージニア・ウルフが読めない

クリストファー・プリースト「魔法」を読んでいて襲われた感覚は、
ヴァージニア・ウルフを読もうとしているときに
感じるものとよく似ていました。

ウルフの作品で最初に読んだのは「灯台へ」。
これは大変好きな作品で、お気に入りの一冊です。
翻訳違いでも読むようにしていますが、
なんら問題も無く、いつも充実した読後感が残ります。

この後、ウルフについて書かれた評論や、
伝記などを2,3冊読みました。
精神の病いに大変苦しみ、
死を選んだとありました。

しばらくして「波」を読んだ時です。
なんだか、頭の中の空気が抜けていくように感じます。
次に「ダロウェイ夫人」を読み出したのですが、
意識に沿ってその対象が移るに従って、
頭の中の空気が断片化し、
散り散りになり、崩壊していくような、
頭痛が襲ってきました。

続いて「オーランドー」。
文章を目にするだけで、
同じような感覚に襲われます。
心理描写という情景が流れるように変化していく時、
ついていけないのです。

それからというもの、
ウルフは好きな作家であり、
どういう作品を書き、
どのような作家であるか、
頭の中で位置づけはできているつもりではいるものの、
作品を読めないでままでいます。

2009年9月10日木曜日

「魔法」続き

昨日は「魔法」を読み終えたばかりで、
かなりの動揺ぶりを露呈してしまいました。
少し落ち着いて、振り返ってみましょう。

イギリスが舞台のこの小説は、
風光明媚な場所のクリニックにおいて
治療を受けている一部記憶喪失の主人公の場面から
始まります。
その主人公の現在おかれた拘束状態から
物語を動かすべく、一人の女性が現れますが、
主人公は彼女のことを覚えていません。

続く治療のシーンも意味ありげです。

現れた女性に関して、ある記憶がよみがえります。
その記憶は大変美しい旅の思い出であると同時に、
苦痛を伴ったものでもありました。

まもなく無事に退院し、彼女とともに、
過去の生活の場所へ戻ります。
そこで、彼女によって、
主人公の失っていた時間について語られます。

ここからが本番なのでした。
彼女が話す事実は奇妙で、 どうしようもなく、
袋小路に行き詰った状態です。
何が本当のことで、
どうつじつまを合わすのか、
今後どうすればよいのか。

不明で不安定で、居心地が悪く、
気味が悪く、何を信じればよいのか。

主人公の芯の部分はぶれないのに、
読んでいる者のほうが、
振り回されてしまいました。

真相を目の前にしながら、
病後の新しい生活を進む主人公は
大変冷静沈着な人間として描かれており、
山場を迎えた後、
ぴしりとピリオドを打つことになります。

この言いようのない内容と巧みな構造を持ち、
人物の心理の動きを微細に表現した
スリリングでいて、端正な作品を
見事にコントロールしている作者にお手上げです。
他にはどんな作品が書かれているのか、
怖いものみたさに、好奇心で一杯です。

2009年9月9日水曜日

「魔法」

「魔法」 クリストファー・プリースト著 古沢嘉通訳 ハヤカワ文庫FT

大変奇妙な作品です。
途中までは普通の英文学だったのに、
どんどん迷宮に入り込んでいって、
ところどころがスリラーのように恐ろしく、
どういう展開になるのが予想がつきません。
最後になってようやく作者が終わらせてくれましたが、
読後感としては未だ宙ぶらりんです。
読書の醍醐味とはいえ、
精神上、少々危険な旅でありました。

2009年9月8日火曜日

「行人」の旅

「行人」 夏目漱石著 岩波文庫

毎週土曜日、日経新聞夕刊に
文学作品にゆかりの土地を尋ねる記事が
大きく掲載されています。
基本的に日本文学なので、
日本各地を様々に巡って、
作品と作家との関係が紐解かれています。

先日は「行人」でした。
作品の前半部分の舞台となった和歌山市の南、和歌浦で、
偶然にも、しばらく前に知人と「行人」ツアーと称して
訪ねたところです。

知人が漱石を学び、好んでいることから始まったこの企画のために
何回も繰り返し、ページを繰りました。

なるべく小説のとおりに出かけることにし、
7月の下旬の暑い日に、
てくてくと歩きまわりました。
東照宮と紀三井寺以外は当時の面影は無く、
海岸の様子も漱石の描写とは程遠く、
拍子抜けするほど、落差がありました。

陽が高く、当りは真っ白な日差し、影は揺らめいていました。
当時もこんなに暑かったのでしょうか。

「行人」はこの舞台とは関係なしに、
とてもひりひりとした人間の心理を奥深く突いた作品です。
神経衰弱と一言で片付けられない、
自分のことすら見えない、
一郎の現代人にも通じる苦痛があります。

一体、自分とは何者なのか、
自分を引き受けることの困難は、
人間に与えられた宿命のように思えてなりません。

2009年9月7日月曜日

エコバッグ

最近、布地のエコバッグをよく持って歩いています。
時々「昔風の買出しだね」と言われて、しょげています。

気に入ったものを用途によって使い分けています。
キャトル・セゾンのマチのある大きなもの、
同じくキャトル・セゾンの麻地の軽いもの、
アニエス・ベーの素敵なイラストの入ったA4変形のもの、
おなじみディーン&デルーカの黒い手提げにはマグを入れて、
クローニクのはとても小ぶりな黒い手提げ、
ロイヤル・コペンハーゲンの紺色のは最近手に入れました。
ギンガムチェックのかわいいのが欲しいし、
水玉もいいなあ・・・などと、数ばかり増えていきそうです。

たいてい水のペットボトルと本が入っています。
そのほかにも書類やら、封筒やら、珈琲、お薬、
カーディガンやら、なんやらかんやら、
やはり買出しみたいなものです。

2009年9月6日日曜日

“半歩遅れの読書術”から

ただいまクリストファー・プリーストの「魔法」ハヤカワ文庫を読書中です。
全く知らなかったこの作家のことについて教えてもらったのは、
日経新聞日曜日の読書欄にある“半歩遅れの読書術”にて。
松浦寿輝さんが紹介されていたのでした。

まだ読み出したばかりですが、
早速、引き込まれています。
じっくりと読むタイプの小説のようなので、
あわてずに今後の展開を楽しみたいと思います。

読みながら、イギリス文学の良さに感心しています。
英語がさっぱりわからないので、原書が読めず、
ちょっぴり残念ですが、
主要な作家、作品はどんどん翻訳されているので、
これらもどんどん文庫化してほしいところです。

この“半歩遅れ”は小さい記事ですが、
様々な人が気になる書籍を紹介しています。
松浦さんの記事を全てとっておかなかったことが
悔やまれます。
おばかさんです。

2009年9月5日土曜日

アートとしての服~ドリス・ヴァン・ノッテン

ドリス・ヴァン・ノッテン、
ここのところ話題が多く、
注目の人ですね。

ドリスのデザインセンス、
エスニックからインスパイアを受けたデザイン、
トレンドに左右されないライン、
美しい発色、
色彩のコーディネイト、
テキスタイルの選択、
アクセントの置き方、
どこかノスタルジックなライン、
無駄のそぎ落とされたデザイン等々に
魅了されてきました。

ライカ時代の
美しい紺色のパンツと、
柔らかな草色のタンクトップ、
黒のカーディガンのワンセットを
大切においてあります。

2009年9月4日金曜日

「マンスフィールド短編集」

「マンスフィールド短編集 幸福・園遊会」 キャサリン・マンスフィールド著 
崎山正毅・伊澤龍雄訳 岩波文庫

久しぶりにマンスフィールドを読みました。
堀江敏幸さんの本で紹介されていたからなのですが、
もともと好きだっただけに、じっくり時間をかけて楽しみました。

マンスフィールドは完璧な作品を書くために、
“水晶のような透明さ”を求めたといいます。
ここにまとめられた19編はいずれも、完成度が高く、
隙がありませんし、目配りができており、構成もしっかりとしています。
そしてテーマに即した人物の心理の動きを丁寧に追っています。
人の心を振り回す代わりに、細やかな描写によって、
情景を明朗に映し出し、物語は映画のようにしなやかに流れます。

お気に入りは「入り海」です。
海辺と子供たちの情景がとても美しく、楽しい。
この作品を読んでいると、情景描写や心理描写において、
ヴァージニア・ウルフを思い出しました。
ウルフはマンスフィールドに一目おいていて、少々ライバル意識を
持っていたらしいので、気になる点です。

このような普遍的な内容の小説は、
いくつ年齢を重ねても、その時々にあわせて
楽しむことができると思います。

2009年9月3日木曜日

「雲のゆき来」

「雲のゆき来」 中村真一郎著 講談社文芸文庫

中村さんの文体が好きでなければ、
とうてい読みきることが出来なかったと思われる
引用の多い、複雑な小説でした。

冒頭に元政上人との関わりが書かれて、
上人の作品や生き方を複線に、
ある若い外国人女優との京都への旅が
描かれています。
明らかにされようとするのは、
その女優さんの根底に塊となっている感情。
「私」の中で、元政上人の生き方と女優さんの生き方が
対比され、「私」自身の考えが浮き彫りなってゆく。

実のところ、この本から読み取ることは大変多く、
詩文、和歌などの古典から教えられること、
女優さんを通して考えされられること、
「私」という人物について驚かされること等、
書き出すことができません。
一度読んだだけでは、もったいなく、
「私」の年齢くらいになった頃に、
落ち着いてゆっくり読み返したいと思っています。

2009年9月2日水曜日

「ブラフマンの埋葬」

「ブラフマンの埋葬」 小川洋子著 講談社文庫

先日小川さんの「ミーナの行進」を読みました。
芦屋が舞台で、従姉妹の少女2人が中心となって
不思議で忘れられない日々を送る話でありました。
奇妙なことや、不可思議なことがたくさん起こるのに、
ちっとも違和感がないところが、
小川さんの手腕です。

これ以外にも小川さんの作品は少しばかり読んでいるのですが、
一番の好きな作品が、「ブラフマン」。

“僕”とブラフマンとの出会いから別れの日々の話です。
“僕”は相手の心を汲み取ることのできる稀有な人で、
ブラフマンにも同じように目を覗き込んで、
声を出さない彼の気持ちを考慮しつつ、
仕事に励み、ブラフマンとの時間を過ごしていきます。

その中には、
何かが隠されていて、
何かが起こりそうで、
はらはらしてしまいます。

隠されているというより、
命のあるものは明確な形態と名前を持たず、
不明であることから、神秘性を生み出しています。
ブラフマンもどんな生き物であるのか、
“僕”のメモから推察するしかありません。

小川さんの作品の好きなところは、
その神秘性と、繊細さ、そして根底にある暖かさにあります。
ゆえに大切に手に包んで守りたくなるような気持ちになります。
そして、いつまでも本の中の世界が持続しているような錯覚に陥ります。

巻末の奥泉光さんによる解説では、
この作品の妙味と小川さんの技術について語られています。

2009年9月1日火曜日

“Le scaphandre et le papillon”

「潜水服は蝶の夢を見る」 ジュリアン・シュナーベル監督

原作はジャン=ドミニク・ボビーによる同じ題名で、
実話であることは知られていると思います。
翻訳を読んだことはありませんので、
この映画で感じたことしか書くことができません。

まず、陰影の深い画面が、作品の重みを伝え、
色彩の美しさが、目に入るものたちの存在の確かさを
感じ取らせてくれます。

主人公の陥った状態をマチュー・アマルリックは忠実に
再現しているようです。

瞬き、瞬き、その目に映るもの、
その目が語るもの、
をシュナーベルは丁寧に描写していきます。

そのまわりに、主人公を理解できるように、
エピソードが取り巻かれ、
彼が一人の人間として立ち上がってきます。

今の彼に残された片方だけの視力、記憶、思考、
全てを尽くして、本は書き上げられます。

ここでは、絶望という言葉を受け止めながらも、
彼方へと飛翔する蝶のように、
現実を生きる姿がありました。

シュナーベルの目を背けない、
おそらく凄まじい製作能力を
見せられた思いです。

そして亡くなった原作者の、
生への願望もここに刻まれこんでいると
言っていいでしょう。