昨夜になって急に須賀敦子さんの命日は3月だったことを思い出し、
全集8巻を取り出して調べてみました。
松山巌さんの詳細な年譜によると、1998年の3月20日に亡くなられています。
もうそんなに時間が経っていたのでした。
神戸にあるお墓には知人とお参りをさせていただいたことがあります。
その後もう一度一人で伺いました。
遠く海の見える生まれ故郷に帰ってこられた須賀さんは、
ご家族と一緒に眠っておられます。
もう少し暖かくなったら、再度お会いしに出かけたいと思っています。
魂をお慰めすることが最も大切なのですが、
自分を叱咤激励していただくためのようなものです。
まったく面識もない一人の馬鹿者がお訪ねしても迷惑だとは思いますが。
昨夜はそうしてしばらく年譜をさかのぼりながら読んでいたのでした。
40歳を過ぎて、東京へ帰ってこられてからも積極的に動いておられます。
翻訳や執筆、授業、エマウスの活動、人との会合など、
実にお忙しく、充実されていたと思われます。
そこに至るまでのイタリアでの生活も辿ってみました。
ローマへの留学、ダヴィデ神父との面会、コルシア書店の活動への参加、
ミラノへの移住、そして結婚。
その間にも現地の日本人との方々との交流や、
神学の勉強、執筆、翻訳と地道に勉強をされていたようです。
長い間、神学や文学を中心とした勉強をコツコツと重ねておられた結果、
英語、フランス語、イタリア語と語学もさらに磨きをかけられて、
知らずとも自らを成熟へと導いておられたのでしょう。
基本的に須賀さんは人との交流がお好きだったのではないでしょうか。
広い人脈はカトリック関係の人々を中心にさらに広がっていたようですし、
門戸を広げられていたように感じさせられます。
イタリアでの生活以後のことは、のちに書かれた作品のベースになっていますので、
私たち読者は作品を念頭に置きながら、年譜を追うことになります。
残された日記を読むと、普通の人と変わりのないように
須賀さんも迷ったり、悩んだりされていたようですが、
まず芯となるもの、核となるものが出来上がりつつあった頃の日記ですから、
その強さに驚かされます。
一人外国に出かけ外国人の間で暮らしたこともその強さを育てる理由になったでしょう。
それにしても、イタリアの生活とイタリア留学以前のフランス留学、
カトリックの洗礼を受けられたことが後々の基盤となっていることを考慮すると、
やはり幼いころからの環境や、育ち方、成長期の過ごし方などが、
須賀さんの生き方に大きく影響を及ぼしているはずだと思われます。
作品のなかでは、するすると流れるように、自明のことのように感じられますが、
須賀さんはそういった自分を作り上げた背景をどのように捉えていたのでしょうか。
あの魅力あふれる作品を繰り返し読み、
その人間性や生き方まで関心を引かれるのですから、
須賀さんは自分にとってはあまりにも大きな人間なのでした。
仮に理解できたとしても、須賀さんに及ぶことは全く無いわけですし、
何のために須賀さんの本や人生について考えているのかわからないといえば、
不明ですが、追いかけるようにしてでも、そのように強く生きてみたいと
思わさせる須賀さんの人生なのです。
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