2009年10月21日水曜日

「純粋状態の白熊」とは?

「春秋」の特集『いま、ヴェーユを<読むということ>』に、
堀江敏幸さんが寄せられていたのは、
「純粋状態の白熊」というタイトルのエッセイです。

読み始めるといきなり熊のお話です。
どういうことだろうと読み進めます。
どうやらヴェーユは「白熊について考えないこと」について
「カイエ」に記しているそうなのです。

もともとはドストエフスキーの「冬に記す夏の印象」の一節、

“「自分の意思が最高に自由であるしるし」として、
社会に対して自己を犠牲にするからといって、
見返りなどは決して期待してはならない、そのためにはどうすればいいのか?
「それは白熊のことを思い出さないようにするのとまったく同じことである。
まあ、試みにひとつ、白熊のことなぞは思い出すまいと、
心に固く決めてみるがいい。そうすれば必ず、いまいましいことに、
その白熊のやつがしょっちゅう頭に浮かんでくるにちがいないのだ。」”

ヴェーユが読んだと思われるその辺りの
影響があるようだ、と堀江さんはみています。
それを進めて、

“「善の領域」と「悪の領域」を併せ持つ空間に、
「なにごとも考えることをやめた魂の略奪状態」で向き合わねばならない。
ヴェーユは、人はいずれの側にも属さざるをえないことを意識したうえで、
その両義性を諦念で処理せず、さらに上位の自己を、
つまり皮肉な抑制なしに、真の意味で「白熊を考えていない」自己を
見出そうとしていたのではないか。・・・
隔離された空間で生きざるをえない白熊たちの、見返りを求めない
ストイシズムは、重力や恩寵とおなじように外から見えない。
それらを認識するためには、中間的なるもののなかに、
純粋状態でしぶとく留まるほかないのである。”

と分析されています。
ヴェーユの思想の一つの概念を白熊によって解読し、

“ところが、私はいまだ不純きわまりない状態で、
白熊のことを考え続けている。・・・”と、
野生出身のコユキに思いをはせ、“コユキこそは、
外から持ち込んだ善と囲いの中の悪を束ねる中間的な存在”

と、ヴェーユの思想をあらゆる所で読み取ることができることを、
証明してみせてくださる、堀江さんなのでありました。

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