「謎解き 失われた時を求めて」 芳川泰久著 新潮選書
この夏、新潮社から「失われた時を求めて 全一巻」が出ましたね。
訳と編集はこの芳川さん、リライトは角田光代さん。
と、同時に芳川さん版「謎とき」が出版されたわけです。
第一章 冒頭の一句について
ここで、これまでの日本語訳について、
冒頭の Longtemps、je me suis couche de bonne heure.
をどのように訳しているのか、比較検討しています。
芳川さんはフランス文学の研究者でおられるので、
もちろんフランス語に立ち戻って考えられているのですが、
実はこれは常に問題になっている訳の部分なのです。
フランス語の知識が無いと、訳は困難なのが実態です。
長い間、いつも私は早くから寝るのであった。(1929)
長い間私はいつも早くから寝ることにしていた(1931)
長い間、いつも私は早くから床に就いた(1934)
長い間、私は早くから寝む習慣をとって来た(1940)
長い間、私は宵寝になれてきた(1953)
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長いあいだ、私は夜早く床に就いた(1990)
長い時にわたって、私は早くから寝たものだ(1992ちくま文庫井上訳)
長いあいだ、私は早く寝るのだった。(2006 集英社文庫 鈴木訳)
長い間、私はまだ早い時間から床に就いた(光文社 高遠訳)
長いこと私は早めに寝むことにしていた(岩波文庫 吉川訳)
“私”がのちのちになって、振り返った過去の習慣に関して、
複合過去で表現している、それは、“私”が過去において生きている状態
を指していると言えるかと思われます。
それまでの十九世紀の小説では過去を語るとき、単純過去か半過去が
使われていました。
冒頭から、プルースト独自の表現を使っているというわけです。
いきなりなかなか難しい問題提起ですね。
第二章 “私”が窓辺にたたずむと
ここでは、主人公が窓という枠から見たこと、
をクローズアップしています。
それは、とても印象深い光景が多く、また衝撃的なシーンもあります。
窓、それも一つの視点の一つです。
第三章 “私”という形式、あるいは犬になること
“私”の視点や意識は匿名性を持っています。
それによって、印象や感覚を研ぎ澄ませる作用を考慮しているようです。
フランス人が知性によって乗り越えてきた歴史を、
プルーストは印象や感覚によって切り開こうとした、と言える、
と芳川さんは述べています。
第四章 モネを超える試み
“私”が目にする、そして意識する風景は、旅などで度々現れます。
その時の表現は光の移り変わりを意識しているものであり、
一連の絵画、タブローようであるとし、一つの平面、あるいは言葉に
よってモネの試みと重なっているようです。
第五章 メタモルフォーズ 隠喩的な錯視
“私”は様々なシーンで、実際に目にしたものから新たな印象を引き出す
力を持っています。それが彼の得意技と思っていましたが。
画家エルスチールの作品を観たときにも、作品から受ける印象が
どんどんと広がっていきます。それはとても美しく、彼の感受性の豊かさ
をも示していました。
同時に、隠喩的な表現が数多くみられ、それは物語の先に繋がって
いくのです。代表的な例は性的な嗜好の持ち主のエピソードですね。
第六章 小説という場所
幼いときに“私”は甘美な、恍惚とした印象を持つことがありました。
それが小説家となる第一歩であったわけです。
とても有名な章で、“私”が馬車の上から、マルタンヴィルの鐘楼を
眺めるときがあり、そこで“歓び”を感じるという部分があります。
それを一生懸命に書きとめたとあります。
ここで芳川さんは <時>の開示そのものが、無意識的想起によって
「時間の偶然性」を廃棄するというかたちで、独自の構造を発揮する。
そこことを示唆しているのが、われわれは「時間の外に身をおいて
いるのに」という「自らの外に立つこと」を構造的である。 とし、
小説の“私”の体験と発見、書くことへの歓びに繋がるとしています。
そのほかにも芳川さんは細かなところに、独自の隠喩的表現を指摘
されています。そう考えれば、そう読めるかも。
そろそろ書くのに疲れてきました。
私自身の最初の考えと違って、書くべきことが多すぎる。
この後、第七章 描写のネットワークを読む
第八章 方法としての記憶
第九章 石への傾倒 小説を書く
第十章 死んでいる母と「ひとりの女」
第十一章 ヴェネツィア紀行
第十二章 知覚を宿す平面 プルーストとベルクソン
とあります。
どの章もしっかりとしたデータに基づいた考証で、読み応えがあります。
もちろん、全体に、プルーストが影響を受けたラスキンについても含め、
これまでの研究の一端が活かされています。
そういう意味ではとても読み応えのある一冊です。
また、この本を読んでなおさら興味を覚える人も多いことでしょう。
「失われた時を求めて」は、隠喩を数多く含み、どこを読んでも、
実は伏線があり、意味の無い表現が無いといっていいくらい、
重厚な作品なのです。
私は一つの小説としてこの「失われた時を求めて」を読みましたが、
読者の勝手で、苦手な部分はさらりとかわしました。
読んでいる者の勘で、これはあれと結びつく、とか、
これは窓枠がついている、とか、この描写はエルスチールの絵を
観るときと同じようだ、とか、これこそが重要な印だと思いながら、
それはそれで楽しむことができましたので、
これで一応十分だと思っています。
そういった勘の部分や、疑問を解き明かしてくれるのが、
こういった解説、批評本だと思います。
さて、この「謎とき」の本に関して申し上げれば、
筆者の感情や、熱意が後押ししていることが特徴です。
第十二章が難解であることは、筆者もご承知のようですが、
他の章も、もう少しゆとりがあってもよかったかと思います。
そういう意味で、少々読みにくさがあります。
ちょっとせっかちなのね、筆致が。
色々な解説本があって、さらに興味深いプルーストであります。
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