2015年10月21日水曜日

「失われた時を求めて」 見出された時Ⅰ

「失われた時を求めて」 12 第七編 見出された時Ⅰ
マルセル・プルースト著 鈴木道彦訳 集英社文庫


さて、とうとう“見出された時”までやってきました。
ここで、この小説の書かれた意味と意義を知ることができるでしょう。
そして有名なエピソードとなる想起されたきっかけを見ることにもなります。


“私”はジルベルトとサン=ルーの別宅であるタンソンヴィルに
滞在しています。
そこでゴンクール兄弟の日記(これはプルーストが書いたもの)を
読み、彼らが書くことで成功していることが、“私”には不足しており、
ひるがえせば、“私”はものごとを違った形で捉えていることでもある、
そういったことを考えさせたのです。
そのすぐ後に、長い間療養生活を送っていた“私”は書くことを諦めて
いました。しかし第一次世界大戦が始まり、療養生活を切り上げて、
パリに戻ってきます。
しばらくは戦時中の話が続きます。おなじみの名前が次々と
現れ、個性豊かな彼らの様子が語られます。
シャルリュス男爵も重要な役目を果たしてくれました。
現場を目撃してしまったのです。
そして戦争はあらゆるものの価値を代え、
軍人として果敢に第一線に赴いたサン=ルーは戦死したのでした。


再び療養所にて過ごしていた“私”は完全に回復することなく、
退院し、パリへ戻ってきます。
ゲルマント家に招かれた“私”は、ふと入口の敷石のところで
つまづきました。その時です、かつても感じたことのある幸福感に
襲われたのは。以前ハーブティーにひたしたマドレーヌを口に
含んだときには、その幸福感を逃がしてしまいましたが、
このときには、これを逃してはならないと悟ったのです。
続いてスプーンが磁器にあたる音がしました。
敷石につまづいて想起されたのは、ヴェネツィアでの出来事でした。
マドレーヌの味はコンブレーでの思い出。
スプーンの音により、また新たな記憶が蘇り、
様々なシーニュが私の幸福感を呼び起こし、これらが結びついて
私の記憶、物語を形作っていることを実感するのです。
ここから末尾までは、実際この幸福感が文学とどうつながっているのか、
“私”は考えを構築させていきます。
ある意味この部分がこの本が書かれるべきものであった理由を
知ることができる山場でありましょう。


“私”が語る言葉が実は大変難しい。
いや、難しい言葉は使われてはいないけれど、
本意を汲み取るには根気が必要です。
というより、わかる人には魔術のように伝わるでしょう。
このとおり私は読み手としては失格です。
考えた事実として読み、
そしてここまでの物語がすべてここに集結しているのは、
当然の帰結として読んでしまいました。
ああ、もったいないこと。
少々リズム感が合わなかったことも理由にあると思います。
そしてフランス人らしい思考回路についていけなかったこともあります。
もう一度読み返すべきか、訳を変えて読んでみるか、
結局は“私”の心理を読みこなせないままとなるか、
考えてみようと思っています。

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