2015年10月8日木曜日

「無意味の祝祭」

「無意味の祝祭」 ミラン・クンデラ著 西永良成訳 河出書房新社


一読してすっかり気に入った作品ではあるものの、
自分ではどのようにお話すればよいのかわからず、
参考に堀江さんの書評を読んでみると、
これが完璧な内容なのです。
こちらを読んでいただければ、すべてが丸くおさまります。
で、堀江敏幸さんの日経新聞掲載の書評を引用させていただきます。
(なんて、いい加減で勝手な奴でありましょうか・・・)


 重さとの対比を拒む一つの現象としての、絶対的な軽み。
 空気のように触知できないものではなく、たしかな手触りとしての
 軽みとでも評するべき、自然のなかで舞い落ちる鳥の羽というより、
 いわば知性でつくられた羽毛布団の破れ目から飛び出して、
 ふわふわと宙に舞っている和毛の感覚だ。
 母国チェコを舞台とした前作「無知」から十数年の時を経て
 もたらされた「無意味の祝祭」はフランス語で直接書かれた四作目
 の小説である。全体の緩い印象を裏切るような、七部からなる
 構造への目配りは相変わらずで、語りは無意味という主題を
 めぐって、優雅で哲学的な笑劇、もしくは遁走曲のかたちで
 展開していく。
 六月の朝、パリのリュクサンブール公園で、ふたりの人物が出会う。
 公園内の美術館で開かれているシャガール展を観ようとして、
 そのたびに長蛇の列に嫌気がさしている老ラモン。彼の元同僚で、
 心配していた癌の疑いがなくなり、上機嫌で同じ園内を歩いていた
 ダルドロ。ところがダルドロは、自分は癌なのだとラモンに「無意味」
 な嘘をついてしまう。作者自身もわからないととぼけてみせるこの嘘
 から、人物と人物の影踏みのような流れがはじまる。
 ラモンがダルドロに斡旋したパーティ、つまり祝祭の差配業者シャルル
 の家に置かれていたフルシチョフの回想録の、「二十四羽のヤマウズラ」
 を語るスターリンの逸話が遁走の手助けをする。権力者の嘘を嘘と
 指摘できないこと。あるいは、冗談を冗談と認識できないこと。
 独裁体制におけるユーモアの欠如は、軽薄ではない知性を奪い去る
 のだ。
 宴のあと、ラモンはダルドロに、「無意味とは人生の本質なんだよ」と
 諭す。「残虐行為、血腥い戦闘、最悪の不幸といった、だれもそれを
 見たくないとこにさえも無意味は存在する」。無意味は無気力や
 無責任とはちがう。過剰な意味を過剰と認識しないまま押しつけて
 悦に入っている者の愚を、やさしく、戦闘的にではなく暴き立てる、
 真の知性の武器である。
 かつてクンデラは、小説論とも言える「カーテン」のなかで、入念な
 ストーリー展開に対する義務感の蔓延を独裁政治下の空気に重ねて
 いた。ストーリーは小説を窒息させる。意味を持たせないことで意味を
 悟らせなければならないのだ。登場人物を愛し、人生を愛し、スターリンを
 笑う力がそこから生まれる。これはなにも小説だけの話ではない。
 いまの私たちに最も有益な助言のひとつであろう。


と、以上引用させていただきました。
堀江さん、日経新聞さん、申し訳ありません。


この「無意味の祝祭」の意味するところは、
堀江さんが書かれているところで読み取っていただくとして、
単純に読むだけで、それらを体感できるというのが、
この小説の妙味です。
難しいことはわからない、でも可笑しくて笑ってしまう。
そして、声高に叫ぶこととは異なった異のとなえ方を学ぶわけです。
自分にそれだけの知性があるわけではありませんが、
変だ、おかしい、間違っている、と思われることに、
自分なりの考えを持たねばならない、
そう思わせる事柄がたくさんあります。
ある意味、力をつけさせてくれる本、だとも言えるでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿