2010年1月31日日曜日

暗峠のうどん屋さん

古くから大阪と奈良を結ぶ峠として知られた
“くらがりとうげ”。
現在は国道ですが、車も通りにくい細い道で、
勾配のきつい峠だそうです。

先日、奈良は生駒市の方から峠に向かいました。
行き先は峠の袂にあるうどん屋さん。

くねくねと道を登り、振り返ると生駒の家々が小さくなっていきます。
すると急に視界が開けて、西側の大阪方面の空が大きくなりました。
この道をもっと先へ行くと、
あの辺りが暗峠ですよ。
同行の方が指を指して教えてくださいます。

向かいの尾根が広々と見渡せる中腹に
そのうどん屋さんはありました。
古民家を修復して趣のある佇まい。
店内の広い和室には、大きな神棚に大きな床の間、
天井の真ん中に太い梁が渡っています。
大きな火鉢には炭がじんわりと辺りを暖めていました。

近辺で捕れるという“いのししうどん”に惹かれましたが、
まずはベーシックに“きざみ”に“かやくごはん”としました。
窓から望む景色も素晴らしく、
冬の山に吹き付ける冷たい風にのった粉雪を眺めながら、
待ち時間を過ごしました。

関西では、うどんは時によっては“およばれ”のご馳走にもなる、
馴染みのある食事です。
好物でもあるので、とても嬉しく、楽しいひと時です。
その日は峠までは行きませんでしたが、
話を聞いていて、近いうちに出かけてみようと、
興味を深めたのであります。

2010年1月30日土曜日

金色のポーチを探しもとめて

ここ2,3年の間、
金色のポーチを探し続けています。

ポーチというのはね、
手鏡とか、リップとか、お薬とか、
糸ようじなどを入れておくケースのことですよ。
と、理解不能の方にご説明申しておきます。

ぴったりしたサイズ、
好みの四角い形、
マチ少々、
できれば素材は皮で、
色は渋めのゴールド、
小さめのロゴなどととこだわっています。

様々なところをチェックしていますが、
ありそうなのに、見つかりません。

去年zuccaが出していた物が、
もしかしたらぴったりかもしれませんが
今頃はもう無いでしょうね。

巡り合いたい、探し物のひとつでした。

2010年1月29日金曜日

Y-mailのハイライター

サン=ローランの春のコスメは、
夢心地にさせてくれます。

バッグや財布でお馴染みになったY-mailのシリーズが
コスメでも登場しました。

黒いバッグを模したケースからするりと出すと、
金色のコンパクトの表に刻印風のロゴが入っています。

このお洒落な外見にまずやられてしまいました。
中身はというと、
チークとハイライターの2タイプがあります。
チークも綺麗な配色で、便利そうな組み合わせ。
ハイライターはさらにキラキラと輝く色見。

実用的にはチークが使いやすそうだと、
現物を見に行ったところ、
横に煌くハイライターにくらくら。

一度は撤退して考えてみました。
“メイクなんて縁が無いのにどうして買うの?”

男性諸君にはなおさら疑問かもしれませんが、
コスメというのは魔力があるのです。
一度魔法にかかると、逃れることはできません。

というわけで、今は夢を手元にしっかりと握っています。

2010年1月28日木曜日

「空間の旅・時間の旅」その⑥

「空間の旅・時間の旅」 マルグリット・ユルスナール著

「ボルヘスあるいは「見者」」
「ある慎ましく輝かしい女性」
「美術通りのワイルド」

ボルヘスについての評論は、
1987年にハーヴァード大学で行われた講演内容で、
豊かで平易な表現で語られており、
比較的伝わりやすいものかと思われます。
ボルヘスを読んだことはありませんが、
“みずからをあるがままの自分として・・・凡人として見る、・・・
 他者も宇宙も見る”人であったというくだりは、
興味をそそられるところです。

次の「女性」とは、
ヴァージニア・ウルフのことで、
ユルスナールは1937年にウルフの「波」を翻訳しています。
その際、ユルスナールはウルフを訪ねています。
このエッセイは、1937年の当時の仏訳の序文に加え、
35年経ってから総合的に振り返ったものを補填したものです。
内容としては、ウルフを読んでいないと意味するところがわかりにくく、
そういう困難な部分を堀江敏幸さんの解説が補ってくれています。
ウルフの「波」は非常に個性的な作品ですので、
堀江さんの懇切丁寧な解説は、
ウルフの作品の読解にも助けになりました。

ワイルドの評論は1929年に発表されたそうで、
かなり早い時期のものとなります。
これは評論というよりエッセイといった方がよさそうです。
ユルスナールの持つイメージが一人歩きしています。
引用される固有名詞に関する知識を共有できる人には、
たまらなく愉楽に満ちたものだと思われます。

このユルスナールの評論とエッセイがまとめられている本、
大変読みにくく感じているのですが、
それは単純に難しいだけということもなさそうです。
堀江さんによると。

“誤解を恐れずに言えば、ユルスナールの批評的散文は、
 斬新な視点の提示や目の覚めるような分析で、読者を
 魅了するものではない。・・・その最大の特徴は、
 行文に起伏が少ない点にある。そこではトーマス・マンも
 カヴァフィスもピラネージも平らな水面にならんでしまい、
 静止衛星のように冷静で暗く沈んだ接眼レンズのなかで、
 動きのない壁画に似た響きを奏ではじめるのだ。・・・
 ユルスナールの肉声は大きな時の渦に吸い込まれて・・・
 読者は生々しい反応に触れることがない・・・”

ユルスナールのその冷静な視線は作品一点を見つめることに集約されず、
流れ行く時間、総合的な歴史の中の一つとして織り込まれているのです。
狭い社会で狭義に縛られていると、見えないままに終わってしまいそうです。

2010年1月27日水曜日

わかりません

今はEMOBILEを使っています。
これを光ケーブルに変更しようとしているのですが、
何をどうすればよいのか分かりません。
むむむ。

パソコンの中を色々と調べてみますが、
一層混乱してしまいそうです。
皆さん巧みに使われているので、
お恥ずかしいのですが、
それにしても複雑な用語ばかりで、
うーん、わからん。

2010年1月26日火曜日

「空間の旅・時間の旅」その⑤

「空間の旅・時間の旅」 マルグリット・ユルスナール著

「三島、あるいは空虚のヴィジョン」 澁澤龍彦訳
を続いて読んでみました。

三島由紀夫を読んだ経験が無いので、
ユルスナールの丁寧な解説に助けられつつ、
三島の作品世界を辿りました。

三島がユルスナールを高く評価しているのを知り、
ユルスナールも三島を読んでみたようです。

高貴な趣味で、教養もあり、才能もあり、
強靭な行動力も持ち合わせてその名を轟かせた三島ですが、
心に訴えるものが感じられません。
作者としてのナルシシズム、エゴイズムが強いような気がします。

小説を読んだこともないのに、
そう判断を下してしまうのは危険ですが、
どこかユルスナールの気質と似たようなところが
あるようにも思えます。

澁澤龍彦も翻訳の際のあとがきで、
“肉体の感覚や外部世界の偶然を通して、
 死が自分に送ってくれる合図の一つ一つを感じれば
 感じるほど、ますます自分が賢明に強く生きていると
 いうことを自覚する人間”がいるとし、
編者の岩崎力さんも
三島もユルスナールもそういう人間に属していると
述べられています。

“死”をどう意識しているか。
“生”を意識するよりも、“死”の気配を強く感じる人は、
また独自の世界観を持っているように感じます。

2010年1月25日月曜日

残念読書

先週は「明日への回想」を読み終えて、
上々のスタートを切ったはずが。

続いて読んだ本が今一つ。
仕切りなおして読んだ本も、
好みとずれがあって、
選択した自分に不満が残りました。

現在、充実感に乏しい状態です。

軌道修正すべく、
ユルスナールに戻ります。

2010年1月24日日曜日

山焼き

昨夜は若草山の山焼きがありました。

近くで見たことはありませんが、
いつも乗降する駅からも眺めることができました。
生きているように赤々と揺らめく山が近くに見えて、
なんだか心配になってしまいます。

18時過ぎに始まり、
30分位で燃えてしまうようです。

古くは野焼きに始まったらしく、
起源は諸説あるそうですが、
鎌倉時代には野焼きの記録がみられるということです。

今は春日大社、東大寺、興福寺の3つが仲良く、
点火するそうで、
防火、消化体勢は万全とのこと。
当たり前ですが。

妖怪払いという話もあるそうですが、
不景気払い、悪払い、厄払い、
良くないことは一斉に払ってしまえるほどの
スケールの大きさでした。

2010年1月23日土曜日

春を呼ぶ花

帰宅すると、
食卓の上に一輪の蝋梅の花。
顔を近づけてみると、
強い香りがしました。

その名のとおり蝋細工のような、
透明感のある黄色い花です。
細長い花びらも、
芯もすべてが黄色というか、
蜜色です。

この一輪の小さな花から漂う
想像も及ばぬほどの
香水のような香りが
春を呼んでくるのですね。

まだ一月ですが、
少しずつ季節は動いています。

2010年1月22日金曜日

いっぱい買いました

そんなつもりはないのに、
本を買い込んでしまいました。

「島とクジラと女をめぐる断片」 アントニオ・タブッキ著 須賀敦子訳 青土社
いつか買おうと思っていたところ、
新版が出ていたので、今こそ買い時。

「ドゥイノの悲歌」 リルケ著 手塚富雄訳 岩波文庫
旧版を持っているのですが、
なかなか読むことができません。
改版が出ていたので、
これを機にホントに読まなくては。

「エマ」上・下 ジェイン・オースティン著 工藤政司訳 岩波文庫
工藤訳はまだ読んでいませんでした。
オースティン・フリークなら、もちろん買いです。

「ねにもつタイプ」 岸本佐知子著 ちくま文庫
笑わせてくれるだけでなく、
核心をついているので、妙にしんみりとしてしまいます。

「博士の本棚」 小川洋子著 新潮文庫
小川さんの本に関するエッセイならば、
勉強になることがあるはずです。

「ローマ古代散歩」 とんぼの本 新潮社
全ての道はローマに通ず。
スケールの大きさに圧倒されます。

「ジャコメッティ」 矢内原伊作著 みすず書房
矢内原さんの文章が好きなので、
いつかはと思っていたところ、
なぜか平積みされていて、
つい手が出てしまいました。

どこから手をつければよいのか・・・
本棚の前で悩みます。

2010年1月21日木曜日

OzzyとMetallicaが競演

猫編集長のブログというのを見ていたら、
かのヘヴィ・メタル界の古参 Ozzy Osbourneと
メタル界の雄 Metallicaが競演したというvideoがありました。
2009年10月のことだそうです。

“Iron Man”と“Paranoid”の2曲を
ばりばりと演っています。

TV番組「オズボーンズ」ですっかりお茶の間の人気者となったOzzyが、
うらうらと歌っていました。
あの奇妙な声は変わりないですが、
おとろしい感じはすっかり減っているような。

Metallicaは変わらずいい音出してます。かっこいい。

久しぶりの鋼鉄音楽もいいものだ。
ちょっとテンションが上がりました。

2010年1月20日水曜日

「明日への回想」

「明日への回想」 菅野昭正著 筑摩書房

1930年生まれのフランス文学者として名高い著者が
青年の頃までを振り返った本です。

旧制の中学三年生の時に
ヴァレリーの「ヴァリエテ」に出会ったとあります。
優れた翻訳であったとはいえ、
そんな若い時にヴァレリーを読むなんてこと、
少々の知力では考えられません。

というわけで、
著者の知的水準が非常に高いところにあったことが
わかります。
そのころに読まれた本は小説だけでなく、
批評、評論にも及んでいたようで、
それは戦後の社会状況に影響されたことが大きかったようです。
とはいえ、幅広い関心、視野がなければ、
気づかずに通りすぎてしまうと思うのです。

学生時、社会の動きに翻弄されて過ごしていた時期にも
心に残る文学作品や映画には触れておられたようです。

東大で中村真一郎さんや森有正さんの講義を受けられていたというのも
いまや伝説として語られるような話です。

森さんの「経験」という命題についての思索は、
その後渡仏されてからの森さんの著書に記されています。

1966年に菅野さんが発表したパリ滞在の感想記についての
森さんの指摘は非常に興味深いところです。
“肝要なことは、彼自身の自我を、彼自身の孤独を生きることである。
 凡ての命名はその後から来るのである。この点について、
 彼の文章は殆ど何も語らない。”
なんという洞察力、意味の深さ。
この森さんの声を菅野さんはしっかりと受け止められています。

森有正さんから多大な影響を受けた辻邦生さんの著作については、
辻的“経験”が多く織り込まれていると指摘されています。
この点、辻作品を読みこなせない者としては、
なんとも痛いところです。

この本を貫いているのは、
戦争体験と戦後社会をどう生きるかというテーマです。
その中で文学の徒としての道を探っているのです。

著者に影響を与えた人としてフランス・ルネサンスの文学者渡辺一夫さんの名も
上がっています。
この方の著書も基本に忠実で、奥深い思想が根底に流れています。
いつか丁寧に読もうと思い、本棚に並べて納めてあります。

菅野さんは謙虚な姿勢を保ちながら、
過去を振り返り、そこから知らされたこと、考えたことを丁寧に記されています。
使われている語彙が少々難しく、読めない漢字もたくさんありましたが、
ちょっとごまかしつつ、読み進めました。
いつの時代も自分の思想的姿勢を崩さず、
指針を見定め、且つ肝要さを失わず生きることが大切なのでした。

菅野さんの翻訳作品にいくつか接することがありましたが、
その中でもミラン・クンデラ「不滅」には
翻訳の困難さを想像させられ、その手腕に喝采したことを思い出します。

2010年1月19日火曜日

ナカムラユキさんの本

以前から気になっていた
イラストレーターのナカムラユキさんの本を購入しました。

「京都に暮らす雑貨暦」と
「京都文具探訪」です。
2冊ともアノニマ・スタジオの本です。

ナカムラさんは京都の北白川で
フランス雑貨を中心としたショップ兼ギャラリー
trico+(トリコプリュス)を
開いておられるそうです。

以前に「パリ雑貨日記」mille booksを手に入れて、
パラパラと楽しんでいたのです。
京都が舞台のこの2冊なら更に楽しめそうだと、
探しに出かけました。

雑貨暦のほうは日々の味わいが伝わってきますし、
文具探訪は懐かしい文具と文具店が登場していて
ノスタルジーたっぷりです。

torico+を覗いたことがないので、
HPをチェックして、オープンしている時には
ぜひ訪ねてみたいところです。

古くも新しくも、
京都は奥が深いですね。

2010年1月18日月曜日

雑誌をめくる時間

雑誌を買うのがとても楽しい。
雑誌はヴィジュアルで勝負です。
綺麗な写真や、バランスの良いレイアウト、
たくさんの文字。
新しい情報も一杯。
今月も数冊買い込みました。

「ミセス」
子供の頃からの愛読書。
ページをめくっていると、
なんだか落ち着いてくるのです。

「Precious」
ハイ・クオリティのものばかりに圧倒されますが、
目の保養のために見ています。

「Richer」
関西の大人の女性向け情報誌です。
ゆったりとした作りです。
身近な固有名詞が出てくるところに、
親しみを感じさせられます。
今月の特集はカフェ。
行ったことのない所へ足を伸ばしてみようかな。

「HighFashion」
今月は春夏のコレクション特集。
ここから新しいファッションが生まれていくのでした。
これらをどうミックスしてコーディネイトされるのか、
スタイリストさんたちの次のステップが見どころです。

2010年1月17日日曜日

震災から15年

阪神大震災から15年が経ちました。
そんなに時間が経っているように思えません。

当時住んでいたところは比較的被害の少ない所でした。
ですが、その衝撃は克明に思い出されます。

簡単には言いようの無い被害・困難・体験を
多くの人が経験しました。

心に残った痛みや苦しみを癒すことは
他者にはできません。
他者にできることは、
少しでも寄り添うことだけでしょう。
心を通わせることができるように、
被害者も他者も心を尽くすことから始まるのです。

今日は命を失った人々のご冥福を祈る日です。
合掌。

2010年1月16日土曜日

半年が経ちました

ブログを始めてあっと言う間に半年が経ちました。
一向に文章の上達も無く、
意味が見えなくなる時があります。
もともとは
一日の中で一つでも意義のあることを見つけられるようにと
思って始めたのでした。

今日一日、何も無かったのかな?
平穏無事に過ごせたということもできますが、
一つでも楽しいこと、嬉しいことを
拾い出せるようになりたいと思います。

一日は、
星座の運勢をチェックすることから始まります。
いいことしか書いていない占いを選んでいます。
本当は、
悪い目の運勢の時の方が要チェックなのだと思っています。

で、すぐ内容を忘れてしまいます。
気分の問題なので、影響はほとんどありません。
こうやって、いい運も逃しているのかもしれません。

2010年1月15日金曜日

ハイチ大地震

ハイチの大地震は目を覆うほどの被害です。
省庁も被害を受けているとなると、
国としての対応も困難かと思われます。

生き埋め状態になっている人々を
一刻も早く助けてあげてほしい。
寝る場所も無い人たち、
食べるものが無い人たちを
助けてあげてほしい。

願うばかりで、
何も出来ないことを
申し訳なく思います。

かなりの余震も続いているようで、
助かった人たちも恐怖と不安で一杯でしょう。

大地震は肉体的にも精神的にも
大きなダメージを与えます。
少しでも早く平安が訪れますように。

2010年1月14日木曜日

「空間の旅・時間の旅」その④

「空間の旅・時間の旅」 マルグリット・ユルスナール著

お休みしていたユルスナールを再び読み始めました。

「時、この偉大なる彫刻家」
「高貴なる敗北」

前者はギリシア彫刻が辿った様相の変化について
書かれたもので、ギリシア彫刻について詳しい人には、
納得のいくものかと思われます。
詳しいどころか、無知の者には少々つらいところです。
たどたどしく想像をめぐらせながら読みました。

後者は日本人にとっては馴染みの深い話です。
コロンビア大学教授であったアイヴァン・モリスの「高貴なる敗北」の
書評で、しめくくりには、
“失われた大義のために死を選んだ人びと”としての日本人の死が
西欧にも見られるということが述べられています。
そういう批判部分もありますが、
文章の大半部分を占める日本人の“高貴なる敗北”についての理解は
大変深いものであり、ユルスナールならではと思いつつ、
モリスの著書がその基本にあるということが、
興味深く感じられます。

2010年1月13日水曜日

冬日

今季一番の寒気が入ってきたようです。
ここ奈良の平地でも雪が降り出しました。
おお、さぶっ。

こういう日は大手を振って暖かくすることができます。
コートも着たまま不器用に動きます。
足元はヒーターを入れて、
室内用ブーツを着用します。
どんなオフィスや。

冷え性の人は足元の冷えがつらいと、
以前、鹿島茂さんと岸本葉子さんの対談を読んだことがあります。
そこでは、究極の策として、スノーブーツを履くと
お二人が意気投合されていました。
まったく、暖かくなるならどんな手も厭わない、
そんなお二人に同感です。

2010年1月12日火曜日

Eric Rohmer

エリック・ロメールが亡くなったそうです。

すでに引退していたとはいえ、
その魂の火が消えてしまったのは、
あまりにも哀しいことです。

初めて自分の意思でチケットを買って、
観にいった映画が、
「緑の光線」でした。

これこそが求めていた映画だと
心が震えました。

映画を観る喜びを実感させてくれたロメール。
心からご冥福をお祈りいたします。

2010年1月11日月曜日

「世界は分けてもわからない」 続きです

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一著 講談社現代新書

著者はあくまでも科学者なのですが、
一人の人として生きている模様が
ところどころ伝わってきます。

科学者として充実した日々を送っている中で、
倦んでいた時期があったことを語っています。

そのときに出会ったのが須賀敦子さんの著書であったそうです。

“彼女の文章には幾何学的な美がある。
 柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が
 秩序をもって配置されている。
 その文様が美しいのだ。”

須賀さんの文章をこのように分析している例を他にはほとんど知りません。

続いて
“ことさら惹かれたのは、本を書くに至るまで
 彼女がずっと長い時を待っていたという事実だった。
 幾何学を可能にしたのは彼女の人生に時間である。
 彼女の認識の旅路そのものである。
 彼女の本を読むにつれ、そのたたずまいに引きこまれていった。
 彼女の歩いた道を彼女が歩いたように歩いてみたかった。
 彼女が考えたように、自らの来し方を考えてみたかった。
 彼女が静かに待ったように、私も何かが満ちるのを待ってみたかった。
 その何かを知りたくて彼女の文章を何度も読んだ。
 そしてますます彼女への想いが深まった。”
と書かれているのを読んでいて、
著者がまるで隣で語っているような気になりました。

須賀さんの読者で同じように想っている人がいる。
須賀さんの文章はそのように想わせるのです。

一人で歩いていくしかないと分かっていても、
道しるべとなるものがあれば、
心強く感じられます。
その道しるべを探すこともまた一つの旅です。
そうやって回り道をしたり、
寄り道をしたりして時を費やしていく。

須賀さんの本に出会って、
繰り返し読むうちに、
今この時を大切にしなければと
強く感じるようになりました。
その積み重ねが人生のようなものとなるのだろうと。

2010年1月10日日曜日

「世界は分けてもわからない」

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一著 講談社現代新書

こういう理系の観点から発信された世界観を考える本を読むのは
始めてです。
のっけから難しい化学記号が記されて、
不安を感じましたが、
このあたりはまだ解りやすいほうでしょう。

お恥ずかしいことにランゲルハンス島のことは
全く始めて知りました。
もうそこで戸惑ってしまいましたが、
次へ進みます。

第2章でカルパッチョの絵についての話。
須賀敦子さんの著書も関係してきます。
これは思いもかけない話だったので、
大変驚きました。
そう、ヴェネツィアにある「コルティジャーネ」は
一枚の絵の半分、もしかすると一部分だったのです。

そして、コンビニによくあるサンドウィッチに入っている
ソルビン酸の話。
シャーレの中で行われるインビトロの実験。
いかに解像度が高いインビトロの実験においても、
それは“本来、細胞がもっていたはずの相互関係が、
シャーレの外周線にそってきれいに切断されている”
ほんの一部分の切り離された情報であることを語っているのです。

その次の章では、
マップラバーとマップヘイターを例にとり、
各々の特徴から細胞はマップヘイターに似たような
動きをすることを述べています。

次の章では、
渡辺剛さんの写真を取り上げ、
境界線のあり方、文化や動植物の移植について
考察しています。

そして後半の多くの章で、
1980年初頭にコーネル大学の一つの研究室で起きた実験と事件について
割かれています。
ここが問題です。
多くの化学語彙が使われているのについていけません。
なんとなく概要はつかんだつもりでいますが、
それが問題なのです。
一部分を俯瞰的に捉えたことが、
理解したこととは言えない。

本の始めに、
イームズが1977年に発表した
映像“パワーズ・オブ・テン”が紹介されています。
小さな点を見つめた視点はどんどん上昇し、
地球からも遠く離れてゆき、宇宙空間にまで達します。
その視点はそこから逆行し、どんどん小さくなり、
人間のサイズから素粒子レベルまで縮小されていくそうです。

視点というものは位置を変えることで、
全く意味が変化してくるということでしょう。

そして著者は最後に、
“この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、
 すべてが一対多の関係でつながりあっている。
 つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として
 切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも
 存在しない。・・・この世界には、ほんとうの意味で
 因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。
 しかし、世界は分けてもわからないのである。”
と結んでいます。

ああ、難しかった。
でも読んでいると、
普段から感じていることが書かれてあったりするのです。
境界線についてはよく思っていました。
県境を越えるとき、
線を引っ張っているだけだな、と。
それにここには出てきませんが、
言葉、方言によくみられる共通項や、
地方色の強い食べ物などについても同じです。
分けなくてはどうしようないこともありますし、
もともと分けることが可能なものもあります。
でもその境目を乗り越えてみるのも一考だと思います。
そういう時には細胞感覚のマップヘイターだけでなく、
俯瞰的に見ることのできるマップラバーの視点も必要となるでしょう。
人間がその時々において、視点や思考対象の位置を変更する勇気をもつこと、
それが大切なように思えます。

2010年1月9日土曜日

風邪をひいてしまいました

どこでかかったのか、
おなかの風邪になってしまいました。
激痛。

昨日はどうにか出社して、
仕事はこなしたものの、
つらくて、
帰りに内科のお医者さんに行きました。
はいはい、と軽く診察を受けて、
お薬を出してもらって、
後は寝るだけです。

2,3日はおとなしくしています。

2010年1月8日金曜日

パソコン緊急事態

年末に喜んでitunesをインストールしてから、
どうもパソコンの様子がおかしい。
日に日に具合が悪くなっていきます。

すぐブルーの画面にエラーメッセージが現れ、
作動不能になってしまいます。
再起動しても同じことの繰り返し。

調べてみるとやはり新しく入れたソフトが合わないらしい。
itunesアレルギーのようです。

パソコンが使えないのは大変困ります。
ipodが使えなくなってしまいますが、
itunesを除去するしかなさそうです。

ため息。

2010年1月7日木曜日

「GO TO THE FUTURE」

サカナクションの2007年発表のアルバムです。
まだサカナクションのHPも調べてみたことはありません。
なんとなく選んで聴いてみたところです。

しっかりとしたリズム感に、
流れるようなサウンド、
複雑に絡み合う音の連なり、
切なさを含んだメロディーと歌詞。

その音と詞はかつて体感したことがあるものだと
記憶は語っています。
そして決して若くはない今でも
微かに感じることのある微妙な心の揺れ。
サカナクションを聴くことで、
ナイーブな感覚が刺激されているような気分になります。

この青い闇の中に漂うやるせなさを
持ち合わせたまま、生を積み重ねることができたらと
思うのです。

2010年1月6日水曜日

「パリ感覚」

「パリ感覚」 渡辺守章著 岩波現代文庫

この本は1985年に「旅とトポスの精神史」の一冊として
岩波書店から刊行された、とあります。
そのとおり、これはパリを歴史と旅と地理と文化のトポスとして
考察した本です。
大変平易な表現で一般向けに書かれているのですが、
豊富な知識と知力をもって記されているだけに、
つまづいてばかりでした。

このトポスという言葉は、ギリシア語で場所を指すそうです。
これまでこのトポスという言葉に実感が伴わないまま過ごしてきました。
そんな頓馬にも、この本を読むことで、
トポスという表現がふさわしいこともあることがわかってきました。
そしてパリという場所の奥深さと麗しさと厳しさを
客観的に、俯瞰的に、愛情を持って捉える妙味があることに
共感できる本と出会ったという感じがします。

この渡辺守章という人のことをよく知らずに
この本を読み始めたことが
良かったのか、まずかったのか、
今となってはどうしようもありません。
翻訳された本の数々も評価高く、
学者として、演出家として、評論家としても
著名な方であることを後になってようやく知りました。

そういったことはさておき、
この本を一冊のエッセイとして読むことだけでも
十分楽しめましたし、
この世の中は知らないことばかりに満ちているということも
教えられる充足感がありました。

パリに行く機会が訪れたときには、
再読して出かけたいと思っています。

2010年1月5日火曜日

読み始め

昨年末の時点では
今年はシモーヌ・ヴェイユから始めようと
思っていました。
もちろん、読みかけの本は無いとの判断です。

現状は、
ユルスナールの「空間の旅・時間の旅」が途中で
難しい本を並行して読むことには自信がありません。

コンパクトで、
読みやすそうな本を選んで、
エンジンを掛けようかと思い直しました。

そこで取り出したのは、
先日購入したばかりの「世界はわけてもわからない」。
開いてみると、読みやすそうではありませんが、
いつもと違うジャンルというのも面白いし、
口絵がカルパッチョ、
これは何かありそうです。

読む本が決まると、後は読み始めるだけ!

2010年1月4日月曜日

初出

今日は今年初めの出勤日。
あまり早く行き過ぎて、
会社の扉が開いていませんでした。
鍵を持っていないので、
のんびりと次に来る人を待ちます。

こういうすぽっと空いた時間が
面白いです。
ただ待つだけになると、
いらいらしてしまいます。
辺りを見渡したり、
行きかう人を眺めたりして、
そのうち誰か来るだろうと、
のんきに音楽を聴いていたら、
鍵を持っている人が到着。
冷え切った室内に入ることができました。

次々と出社してくる人、
電話をかけてくる人に、
新年のご挨拶をして、
仕事がスタートします。

そのうちいつものように、
仕事にまみれてくるのでしょう。

2010年1月3日日曜日

モンブランの万年筆

「ベルリン 天使の詩」を観て
万年筆に惹かれるようになりました。

ずいぶん昔に購入した
一代目のモンブランは、
すぐ詰まりを起こしてしまい、
頻繁にメンテナンスを繰り返しているうちに
やっかいになり、お蔵入りしてしまいました。

それから、
ウォーターマンやペリカンの
ビギナー向けを使ったりしてみましたが、
ペン先が太く、書き味などが気に入りません。

しばらくの間は諦めて
万年筆から離れていましたが、
独特の筆跡や、色合い、手への馴染みなどを考えると、
万年筆を復活させて
使いこなしたい!
根気良く手入れして、
お友達になりたいと決心しました。

で、二代目モンブランの登場です。
独特の優しい書き味に満足しています。
やはりちょっと手入れを疎かにすると、
詰まってしまいますが、
あわてず、焦らず。
この二代目とは長くお付き合いしたいと思います。

2010年1月2日土曜日

初買い物

今年の本屋さん行き第一弾。

「ギリシア哲学者列伝」上 ラエルティオス著 加来彰俊訳 岩波文庫
「歴史」上 ヘロドトス著 松平千秋訳 岩波文庫
どうしてこんな難しい本を選んだのか?と聞かれることでしょう。
それは、いつも読ませていただいているあるブログに、
取り上げられていたからなのです。
そんなに面白いのなら是非、と思ったものの、
読めるでしょうか?

「世界は分けてもわからない」福岡伸一著 講談社現代新書
あちらこちらでこの福岡さんのインタビューを見かけます。
堀江敏幸さんがこの本を推薦されていたので、
一つ読んでみることにしました。

「エスケイプ/アブセント」絲山秋子著 新潮文庫
絲山さんの小説は直接的です。
とてもイメージがはっきりとしています。
内容も登場人物も爽快です。
今回はどのような内容でしょうか。

「明日への回想」菅野昭正著 筑摩書房
“ちくま”に連載され始めた時、
いつか本になったときにゆっくりと読ませていただこうと思い、
ざっと目を通していました。
が、あまりに高等なレヴェルの内容に怯んでしまい、
いざとなると躊躇してしまっていました。
そこへ“ふらんす”に三浦信孝さんによる書評が掲載されて、
考えをあらためました。
背伸びする必要も、妬む必要もなく、
ただ素直な心持ちで本を手に取ればよいのでした。
心を入れ替えて読むとすると、
この本はどういう光景を見せてくれるでしょうか。

今日のお買い物も、
読むのが楽しみな本ばかりです。

2010年1月1日金曜日

Bonne Année 2010

2010年、今年はどんな年になるでしょう。

自分で動かす部分もあるし、
自分ではどうにもならないこともあります。
何につけても、
前向きに考えていきたいと思います。

皆様にとってより楽しく充実した一年でありますように。