2014年8月31日日曜日

ローズマリーのその後

地に這う種類のローズマリーを植木鉢に植えたのは数年前。
でもどうみても木立性。


年に1,2回ほど枯れかけます。
根腐れかと思われますが、植え替えもせず。


元気な時に、枝を数本カットして水に活けてみました。
が、真夏であったこともあり、水温が上がりすぎて、
煮えてしまいました。


本体の方は細々とながら、生きながらえています。
今も水色の花が満開です。
こうなると、植え替えなくてもいいかな、と思ったり。
するなら、秋?春?


枝をカットして分けてみるのも、
春がいいかもしれません。


実はよくわからないのです。
成長するのは春だから、というだけです。


ハーブは確かに丈夫で、
ラベンダーも鉢の横からでてきた苗までが成長して、
どんどん大きくなっています。


タイムもよく成長しますね。
土もあまり選ばないようで、
あちらこちらに伸びています。


恐ろしいのはミントです。
成長力がすさまじい。
庭を野原に見立てれば、それでいいのですが。


チャイブも幾鉢かあるのですが、
枯れないです。
お花の色が綺麗ですね。


ハーブののびのびとした、自然な伸び方や枝ぶりが好きです。
香りがいいのはもちろんのこと。
でも、料理には使いこなせない。
なぜか馴染めないのでした。

考えはあちらこちら飛び散って

2年前に新しいことを始めて、心機一転しようと考えて、
あるジャンルの勉強をスタートさせました。
その時には、その勉強をすることで、転職もできて、
収入安定につながればいいのだが、とも思っていました。
が、勉強の内容や、その業界の情報を調べているうちに、
とうていその業界での就職は不可能だとわかってきました。


それはそれで、勉強した内容は無くならないし、
そのジャンルに関心が出てきたので、
イコール転職ではなく、何かに活かすことができるように、
模索することになりそうです。


この勉強を始めるときには、
これまで関心のあった語学の勉強をあきらめることにしていたのです。
能力不足、進歩も無いし、何か得られることも無い。
ただ好きという理由だけでした。


もちろんこの他にもやりたいことはたくさんあります。
日本の古典文学も読みたいし、
文学評論の本も読みたい。
比較文化の本も読んでみたい。
哲学・思想関係の本も読みたい。
世界の古典をきちんと読んでおきたい。
その上にスイミングも行きたいし、
ちょっとした小さな鉄道の旅もしたい。
JAZZも聴きたいし、
映画もたくさん観たい。
・・・
なんと欲張りなことでしょう。


ということで、自分が納得、満足するには、
少しずつやってみよう、と思うに至りました。
どれをとっても、そのジャンルのエキスパートになるわけでもありません。
好みでやるだけなのですから、
そんなにガリガリと神経質になる必要はないのでした。


今では高年齢の方でも、新しいことにチャレンジされて、
楽しまれている様子がよく話題になります。
そういう様子をみていても、
あきらめるってことが、一番もったいないのでした。


いつも気になるフランス語、こちらを復活させようと思います。
大きな目標としてデュラスを原書で読めるくらいに。
(デュラスの文章は初歩レベルで読めると教わりました)


それから、60歳くらいになったら英語を勉強します。
恥ずかしい思いを何度もしてきたので、
せめて高校生レベルくらいにはなりたいですね。
(目標の低さにあきれられますね!)


何の役にも立たない勉強ばかり。
でも、幸いにして今は仕事に恵まれていますから、
しばらくはそんな夢を見てみようと思います。

ほっとしたはずの日曜日

今週の水曜日のお休みに出かけていたので、
一週間ぶりにゆっくりできた日曜日。


ですが、なんだかリズムが整わず。
お昼寝もする気になれず。


庭にたった一本だけ植えてあったバジル。
とっても立派に成長したので、
どうにかせねば、もったいないと思い、
ジェノバソースを作ってみました。
レシピどおりにしたつもりではあるのですが、
塩がきついし、
青臭いし、
慣れない香りがします。
食べ慣れないからでしょうか。
いつものパスタにちょっとだけ入れて、
馴染ませて食べてみようかと思っています。
あと、思いつくのは、ジャガイモを茹でてあえてみるのは、
どうでしょうか。
あまりよい予感がしません。
我が家ではあまり喜ばれないかもしれません。


日経、朝日、毎日と新聞3紙も読み、
「図書」「波」も目を通したり、
と好きなこともしているのに、
テンションがあがらない、
ちょっと憂鬱気味の日曜日でした。

2014年8月29日金曜日

朝夕が涼しい

朝方、曇っていると涼しく感じるようになりました。
夜はとても気持ちいい風がさわさわと吹いています。


昼間の陽射しは相変わらずですが、
熱中症になりそうなほどではありませんね。


それに、夕暮れの時間が早くなってきました。
帰り道に西のお空を見上げると、遠くが赤く染まっています。
ぼちぼちと秋ですね。


読書は毎夜「嵐の夜の読書」池澤夏樹著を少しずつ。


昨日読むのを止めた本のことを考えて、
これから先の時間に何をするのがいいだろう、と思い返していました。
勉強をしていることは一つの節目を迎えており、
それでも、これで食べていけるわけではないこともはっきりとしています。
その分野に関心があることは変わりはないので、
関係図書を読んでいくことは、これから何かに繋がっていくかもしれません。
また、その勉強のブラッシュアップもできればいいのですが。


それから、やっぱりやっておきたいことを、
年齢が高くなってでもやったほうがよさそうだ、と思ったりしています。
これまでは、若い時にしかできないから、とか、
役に立たないから、とか後ろ向きにあきらめていましたが、
好きなことをやるのが一番だ、と考えなおしています。


まずは、健康第一、収入安定ですね。


この話はまたゆっくりといたしましょう。

2014年8月28日木曜日

読んでいるうちに

本を読んでいるうちに、
どうしてこの本を読んでいるのか、
わからなくなってくる・・・ということはありませんか?


今日も読みかけの新書本を開いて読み進むうちに、
不明になってきました。


言っていることも声高で、
理詰めで攻められ、
文章も洗練されているとは言い難く、
内容も面白くもなんともない、
同調する部分がわずかにあるだけ。


タイトルと著者で選んだ本ですが、
能力を持って勢いで書かれた本という感じもして、
不快感まで抱いてしまいました。


こういう場合は、読まないほうがいいですね。
読むのを放棄するのは、
著者に申し訳ないと思ってしまうのですが、
精神衛生上よくないことのほうが優先です。


さ、せっかく読書するのですから、
納得のいく本を選ぶことにしましょう。

2014年8月27日水曜日

額田駅

額田駅の下りホームに立っていました。


大阪からの帰り電車でお腹イタイタに見舞われ、
慌てて降りたのが額田駅でした。


大阪難波から奈良への下り電車に乗ってゆられていくと、
少しずつ山登りを始めます。
石切駅から先の生駒山のトンネルに入っていくのです。
その山登りの途中にあるのが額田駅。


落ち着いて1番ホームから眺めていると、
目の前に緑一色の生駒山が押し迫ってきています。
駅の北側はその生駒山を中心にあちらこちらに緑が見えていますし、
駅前付近も住宅地も山坂にあるわけですが、
落ち着いた昭和の香りがしています。


線路を見ればゆったりとカーブを描きながら、
左に向かって登っていっています。


夕方の夕陽が当たって暑いはずなのに、
地形のせいか、風がけっこう吹いていて、爽やかです。


こじんまりとした小さなホームで、
坂道のあるところっていいなぁと思っていました。
濃い茶色に覆われた屋並みも古めかしくて、
どこかしら懐かしさを感じさせるものでした。


思いがけない楽しい途中下車となりました。

2014年8月26日火曜日

不安定な天気の中で

相変わらず風変りな天気が続いています。
陽がぎらっと差したかと思うと、
風が強くなり、
どんよりとした雲が空を覆ってきて、
夕方遅くにはぽつぽつと雨が降ってきます。


こちらは晴れているのに、
奈良旧市街の方を遠目に眺めると、
空は黒く、街は真っ白に染まって大雨が降っていたり。


そんな中気が付くと、
蝉はつくつくほーしに代わっています。
夜はどこかでこおろぎが鳴いているのが聴こえて。


会社の裏は小さな丘になっていて、
丘の裾は雑草の繁みになっています。
春ごろから眺め続けていると、
草の種類が少しずつ入れ替わっているのに気が付きました。


道端のねこじゃらしも茶色を帯びてきて、
そろそろ夏も終わりに近づいているようです。


8月も今週で終わりです。
夏らしい天気が少なく、災害が多かったように思います。
夏の夜を楽しむこともあまりなかったのでした。
夏の課題のイタリア文学も2冊程度で終わりになりそうです。


秋はどのように過ごしましょう。
静かなさわさわとした過ごしやすいシーズンでありますように。

2014年8月24日日曜日

「イタリアの詩人たち」



「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社


時間はかかりましたが、
ここに上げられている5人の詩人たちの作品を
一人ずつ読んでみました。


この本には他にもいくつか訳詩が取り上げられています。
その詩自体をじっくり味わい、
自分なりに解釈してみるのが一番よいでしょうね。


この本は「スパツィオ」というオリベッティ社のPR誌にて
1977年から1979年にかけて掲載されたものです。
須賀さんの40代後半のお仕事でありました。


この本の訳詩と批評についての須賀さんのお仕事の力量については、
堀江敏幸さんの解説に譲りたいと思います。
こちらの解説は、須賀さん好きとして、
とても共感できる内容となっています。


付録として“栞”があります。
当時の編集担当であった鈴木敏恵さんが、
その頃ことを振り返っておられます。
また、訳詩について、訳者としても名高い中井久夫さんが、
考察されています。


40代後半の須賀さん、
まだ講師として教壇に立たれていた頃でしょうか。
そして、「エマウスの家」を運営されていたの時期ではなかったでしょうか。
須賀さんを通して、これらの詩を読むことができることは、
大変うれしいことです。
そして須賀さんのことを知るにとてもよい一冊です。


そうですね、個人的にはモンターレの詩を読んでいると、
安定感がもたらされ、いい感じでしょうか。
どの詩人の作品も初期の詩に明快さを感じて、
気分よく思われます。
シンプルだからでしょうか。
年齢を追うごとに深みを増し、重みが出てくると、
少々感覚の違いにとまどってしまいます。
またいつか読み返してみると、
味わい方も変わっているかもしれません。

大雨の日曜日

今日の午後は奈良北部も大雨です。
夜になっても降ったり止んだりしながら、
降るときにはざぁざぁとすごい音。
各地でも同じ状況のようですね。
北海道までも。
今週前半はこのような天気が続くようです。
梅雨の末期みたいですね。


雨の中行われた甲子園準決勝。
2試合目を観戦しました。
壮絶な打ち合い。
投手の出来が、というのではなく、
どちらのチームも皆打撃センスがいい。
うまく打っていると感心しきり。
大阪桐蔭の福島投手が投げ切り、
チャンスを生かして点を重ねて、
勝敗が付きました。
敦賀気比もここまでの試合を考慮しても、
素晴らしいチームです。
2年生の平沼投手、来年待っています。
明日は三重対大阪桐蔭の決勝となりました。
またまた観たい熱が上がってきましたよ。


夜はパヴェーゼの「月と篝火」を読み始めました。
重い。
パヴェーゼは実に重苦しさがあります。
その分、言葉に込められた想いがあるのですね。
先に訳者の河島英昭さんの“あとがき”を読んで、下準備。
パヴェーゼの文章が重い理由がわかるような気がします。
そして、自ら命を絶ったという理由についても、
想像をめぐらしてみます。
いつも謎に思っていたので、どこか腑に落ちたような気がしました。
これはあくまでも勝手な推測です。
それから、故郷へ帰るという意味合いについても、
考えをめぐらしてみて。
私には地点的な故郷がありませんから、
関西ひとまとめが故郷みたいなものだと思っています。
などと、ぼんやり考えごとをしている時間が、
気持が落ち着くひとときでありました。

2014年8月23日土曜日

明日は

広島の行方不明の方々の捜索が難航しています。
今日は多くのボランティアの方も参加が可能になったそうです。
息がつまりそうな苦しさを感じます。
捜索に携わる皆さんの努力の成果を念じ、
避難されている方々の少しでも心に安らぎがありますよう、
願っています。


明日は何も予定の無い日曜日。
お天気が不安定ですが、
個人的には安らげるかな・・・と思いきや、
明日こそ甲子園だ!
準決勝を観戦させていただきます。
今日も広島は勝利することができました。
首位争いが面白くなってきたという面もありますが、
広島でカープのファンの方々には嬉しいニュースですね。


めずらしく母が「BRUTUS Casa」を買っていました。
それはテーマが“朝の楽しみ”とあったからだそうで、
男性向けの本とは知らなかったそうです。
年代的合うだろう、私などは面白く見せてもらいました。
色んな朝の過ごし方があって、楽しい紙面になっています。


このところ、ニュース盛りだくさんというタイプの雑誌が苦手になりました。
ニュースをキャッチする媒体と、
紙面を楽しむ媒体を区別しています。
今気になるのは「KINFOLK」。
時々買うのは「FUDGE」。
できることなら、自分で雑誌を作ってみたいです。
そのような仕事はしたことが無いのでさっぱりわかりませんが、
好きな紙面を作ってみたい。
というわけで、自分専用の色々ファイルを作っているのでありました。

2014年8月22日金曜日

たくさん手直ししました

昨日の夜に書いた「聖なる酔っぱらいの伝説」のメモ。
思っていたよりも時間はかかり、
その上、読み直してみると間違いだらけ。
手直しに追われることになりました。
読んでくださる方は、開けるたびに少しずつ変わっていることに、
気づかれたことでしょう。


それでも言い足りないことがまだあって、
そ~なんです。
ヨーゼフ・ロートのご紹介ばかりしていて、
肝心な、自分がなぜこの「聖なる酔っぱらいの伝説」が好きなのか、
書いていないのでした。


ロートが自分を投影させたと思われる主人公が、
宿無し生活だけど、誇りを失わず生きていて、
これまでの人生を後悔などしていないけれど、
つらいことがたくさんあって・・・
そんな主人公に神様が微笑んでくださる。


酔っぱらいだけど、自尊心は失ってはいない、
そんな主人公がいい。


そして、現実にはそんなことは無い、だからこそ、
恩寵のような奇跡が起こる、
美しいお話です。


ロートの長編「ラデツキー行進曲」の文庫本も出たところです。
読んでみようか、迷っています。

2014年8月21日木曜日

「聖なる酔っぱらいの伝説」



「聖なる酔っぱらいの伝説」 ヨーゼフ・ロート著 池内紀訳 岩波文庫


この新たに編まれた短編集には5つの作品が収められています。


「蜘蛛の巣」 1923
「四月、ある愛の物語」 1925
「ファルメライヤー駅長」 1933
「皇帝の胸像」 1935
「聖なる酔っぱらいの伝説」 1939


ヨーゼフ・ロートは1894年、当時はまだハプスブルク王家統治の
オーストリア君主国の、現在ではウクライナ共和国のロシア国境に近い
ブロディーという町でユダヤ人の両親の元に生まれました。
公用語はドイツ語、ウィーン文化圏だった当時ですが、
第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊、
ポーランド人、ウクライナ人、オーストリア人、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人と
多民族の国家が分散され、新たに民族主義色を強めるようになりました。


そんな環境にあったヨーゼフ・ロートは、
ベルリンで新聞の特派員として働いていましたが、
ナチスの台頭に危機感を抱き、
パリへと向かいます。


「蜘蛛の巣」は初めて書かれた小説で、
読んでみると、これはナチスの初期を描いたものだと勝手に思ってしまいました。
でも、この作品はミュンヘン暴動の2日前に新聞連載を終えているのです。
当時はまだナチ党は小さな集団で、
政権をとるのは十年後の1932年のことです。
なんという察知能力、というか、観察眼ですね。
当時の社会情勢をよく理解していたからこそ、書けたものだと思います。


ヨーゼフ・ロートは、かつての多民族国家の時代に憧憬と回帰の念を抱いており、
「皇帝の胸像」はそういった内容となっています。
洗練された文章、無駄のない的確な描写によって、
そういった想いがメランコリックにではなく、
ひとりの人物と村を題材に懐かしくも、重厚に描かれています。


「四月」と「ファルメライヤー駅長」は、愛の物語。


遺作となった「聖なる酔っぱらいの伝説」は、ほんとに酔っぱらいの奇跡のお話です。


ヨーゼフ・ロートには美しい奥さんがいたそうです。
その人は精神に異常をきたし、病院への入退院を繰り返していたとのことです。


その妻を入院収容しなければならなくなって以降、
家を捨て、ホテルを住居とし、
パリを始めとして、あちらこちらを渡り歩き、
1934年パリのホテルを出たところで倒れ、44歳という若さで亡くなったのでした。


「聖なる酔っぱらいの伝説」は少しは本当のことが含まれているのでしょう。
彼はお酒を、それも強いペルノーなどを好み、深酒が体をむしばんでいたようです。
それでも、文章は美しく、明晰でした。
とても苦しい人生だったのだと思います。
祖国を失い、夫人を置いての亡命、
“眼前の死”を避けるためのお酒・・・であったそうです。


と、長々と池内紀さんの“あとがき”から抜き書きをしましたが、
私が思うに、
ヨーゼフ・ロートは、私たちの現実の世界を客観的に見つめながら、
人生の喜びと悲哀を同時に描き、生きた愛すべき作家です。

2014年8月20日水曜日

木田元さん逝く

8月16日に木田元さんが逝去されました。
ハイデガーの研究や、メルロ=ポンティの翻訳など、
哲学者としての道を歩まれた方でした。


偶然に「闇屋になりそこねた哲学者」という本を手に取って、
木田さんの本をいくつか読むことがありました。
戦中・戦後と大変苦労をされた後に、東北大学に進まれた、
そのあたりを詳しく回想されています。
この本は、現在ちくま文庫に入っています。


軽い気持ちで「ハイデガーの思想」岩波新書を読んでみたのですが、
ええ、もちろん私には無理難題でございました。
その上、ハイデガーの思想のどこが魅力なのか、
さっぱりわからないままに終わってしまったのです。
その後もハイデガーと「存在と時間」とは、
全く相いれない関係にあります。


確か、ドストエフスキーを読まれ⇒キルケゴールに関心を持たれ⇒
ハイデガーに至られたと思います。


戦後、どうやって生きていくか、物理的にも精神的にも悩まれた方は
たくさんいらしたでしょう。
急に指針が無くなってしまったのですから。
その中で、自分にとって意味のある思想を見出されたというところが、
まず大切です。


読書においては、そういった大切な出会いがあったりしますが、
そこから先も山あり谷ありで、自分で切り開いていかねばなりません。
と、わかっていながらできない私。


もう一度木田さんの本を読んで、
一歩ずつ進んでいく大切さを学ぶところから始めなければならないようです。


これからも木田さんの著書・訳書は、
皆に読み継がれていくことと思います。
ご冥福をお祈りいたします。

次々と災害が

不安定な豪雨があちらこちらで起こっています。
福知山も大変な被害で、まだ復旧対応に追われていると思われます。


今回の広島の土砂災害は数か所におよび、
それも就寝中という時間帯に起こりました。
多くの方が亡くなり、行方不明の方もまだいらっしゃいます。
まだ被害が広がる可能性があるということですので、
早めの避難等対応が必要となっています。
各地の災害の起こりそうな地区の方々はご用心ください。


今日の奈良はかんかん照り。
午前中は歯医者さんでクリーニングをしてもらったのですが、
バス停に行くだけで汗が流れて。
帰りも影の無いところをてくてく歩いていたせいか、
お昼をよばれた後、いつもならふぅ~っと寝てしまうのに、
今日はまったく寝る気配無し。
テンションが上がったままになっています。


夜は家で採れたトマトたちを使ったパスタを作りました。
完熟のトマト缶とは違った滋味豊かな美味しさがありました。


上がったままのテンションをどうやって下げようかと、
まずはお風呂に浸かろうと思います。



2014年8月19日火曜日

茹るような暑さと曇り空のもたらす湿気

ゆだってませんか?
暑さと湿気で。


昨日はあることをきっかけに仕事中にもかかわらず腹痛に見舞われ、
その後には大阪に行かねばならなかったので、
ひぃこら、ひぃこらとお腹をなだめつつ、お出かけしました。


それは黒薔薇会の暑気払いのため。
なぜかお魚ばかりの和食で、これまた、ふぅ~。
熱燗で心と体を休めつつ、おしゃべりに興じたのでありました。


とりあえず私としては、飲み放題ってだめね。
食事がおろそかになっている。
呑み助さんには悪いけれど、
美味しいものを少し、美味しいお酒を少し、
というのが好みです。


おしゃべりの中身はしっかりと仕事が話題で、
色々と教わることがありました。
自分流に流されてばかりはいけませんね。
メンバーの方々、ありがとうございました。


して、今日はお仕事を粛々と進めることができて、
難しい案件もクリアできまして、幸いです。
午後から右手が痛くなってきたので、
明日は難儀するやもしれません。
いくつかお話したいことがあるので、
なんとか凌いで、キーボードを打てるようにしたいです。


お空は雲りがちで、風もあったりしますが、
返って湿気がむわんと襲ってきますね。
そこへ陽射しが差すと、恐ろしい暑さ。
少し歩いただけなのに、
すぐ眼鏡をはずして、汗を拭き拭きです。
あとはうちわでパタパタ。
内勤で、この状態ですから、
外まわりの方は大変だと思います。
お疲れ様です。

2014年8月17日日曜日

「イタリアの詩人たち」サルヴァトーレ・クワジーモド



「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社


サルヴァドーレ・クワジーモド 1901-1968


「遙かな冬」


   炎のくらがりで
   焦がれる きみの 明るい手は
   樫と薔薇に匂っていた。
   死の匂いも。 遙かな冬よ。


   鳥たちは 粟をもとめて
   すぐ 雪になってしまう。
   ことば も。
   太陽を少し。 天使の光背。
   霧が。 樹々と
   われわれは 朝 空気になる。


クワジーモドはシチリア島生まれ。
ローマ大学に進んだものの、退学。
この時期に
ギリシア語とラテン語を習得する。
25歳のときに建設省の技師の職を得る。
妹の結婚相手が作家エリオ・ヴィットリーニであり、
クワジーモドをフィレンツェ文壇に紹介した。
1940年「ギリシア抒情詩集」出版。
1941年ミラノに教授の職を得る。
1942年アンソロジー「すぐ夜がくる」を出版、好評をもって迎えられる。


須賀さんの評いわく、
  クワジーモドの言葉には、大理石の光沢と勁さがあり、
  地中海の光と匂いがある。(P169)


  クワジーモドにとって、ものごとの本質性など、最初から問題ではなかった
  のではないか。彼がもとめたのは、言語の現象の世界(彼なりのそれは
  サンボリズムだったといえるだろう)だったのだろう。ウンガレッティが、
  モンターレが、究極的には、一神教的な実在の世界を求めたに対して、
  クワジーモドの宇宙は、神々の美にちりばめられた言葉の楽園であり、
  それ以上をもとめてはならない。彼の言語は、神々の光をまとっては
  いるが、人間の実在に心を砕くことには、全く関与しないのである。(P183)


この本にはクワジーモドのいくつかの作品が収められていますが、
普通に綺麗な言葉で綴られていて、
それ以上でもなく、それ以下でもない、
心を揺さぶられることはない、という感じです。
これは個人的感想で、人によっては感動されるかもしれない・・・とも思うのですが、
須賀さんだけではなく、イタリア文壇でも評価は分かれているようです。


須賀さんがクワジーモドを評価していなかったことを、著作により知っていた、
そのため、ついそちらに意見が傾いてしまいますが、
最終的な評価は、読み手にゆだねられることでしょう。

おだやかな日曜日

我が家ではいつもと同じような日曜日でしたが、
各地で豪雨の被害が相次いでいます。
雨の降り方が尋常ではありませんね。
まずは救助が早く進み、安全なところへ避難できますように。


お休みも二日目となれば、
気分も身体も安定しています。
お休みのわりには早めに起きて、用事をし、
お借りしているDVDをチェックし、
「イタリアの詩人たち」の最後の章クワジーモドに目を通し、
タブッキの「いつも手遅れ」を読み始めたりしていました。
夜はTV「日曜美術館」バルテュスの再放送をゆっくりと。


タブッキ「いつも手遅れ」は男性から女性に宛てた手紙のような短編が
収められていて、タイトルにあるように、過去を振り返って話しかける、
そんな少々寂しげな感じです。
私ももう少し精神年齢が練れてから、読んでみる方がいいかもしれません。
タブッキの小説は少しばかり夕暮れがかった影があるのです。
男性の女性に対する心理に疎い私には難しいかな。


「日曜美術館」のバルテュスの特集は、なかなか興味深いものでした。
これまで、バルテュスについてはセンセーショナルな作品と、
代表的な作品についてのみ紹介されることが多く、
また、アトリエについての紹介は場所と作品との関係をざっくりと
取り上げられていることが多かったように思います。
晩年に暮らしたグラン・シャレでの節子夫人との生活が
クローズアップされがちであったことは仕方が無いでしょう。
この番組では、アトリエ=場所、モデルを中心として、構成されていて、
どこで、どの時期に、どのような作品が描かれ、どのようなコンディションであったか、
とバルテュスの画家としての人生を明確に振り返った内容になっていました。
録画しておきたかった・・・です。
あぁ、もう一度観に行きたいです、バルテュス展。後3週間も京都で観れるんだ。
それに他の作品も観たいです。
できれば、晩年の作品についてもっと知りたいです。


また広島は巨人に負けてしまったし⇒逆転勝ちしました!ありがとう!
高校野球を全然観れていなくて、真夏をまだ満喫できていない気がするし。
夏の後半戦をどのように過ごそうか、また悩んでみようと思います。

2014年8月16日土曜日

寝ていました

今日は待望の二連休初日。
あれもこれもとやりたいことはいっぱい。
だったのは昨日の夜まで。
実際には一日寝ていました。


不思議なくらい寝てしまいます。
わざと寝ようとしなくても、
ころんと寝転がったら、
すぅすぅ。


頭の中は少しは整理されて、
疲れが取れているのでしょうか。


もうすっかり今日は何もしなくていいと割り切って、
またまた寝ることにします。


ネットを開けて、
知人のブログを見ると、
皆元気に動き回っているようで、
自分のだらしなさにがっかりしてしまいました。
どうにかならんかなぁ、
この体力の無さ、
すぐに参ってしまう神経。
食べ物の問題より、
筋力の問題のような気がしているのですが、
これで身体を動かしたら、
もっと疲れてしまいそうな感じがします。
ついに養命酒か?!

2014年8月15日金曜日

8月15日の私

今日は8月15日。
大切な日です。


しかしながら、いつものように出勤しておりました。


鞄の中には、またまた社会派の本を一冊。
「リベラルじゃダメですか?」 香山リカ著
 


先日読んだ「だから日本はズレている」古市憲寿著も
できれば、内容を落とし込みたいのです。
でも、これ以上深入りするのはやめておいて、
心の中にとどめておくことにします。


今社会を動かす決定権を持っている年代の人達の
次の世代が動き出したという気がしています。


それTVにネット、雑誌に加え、
この新書というスタイルの書籍が後押しするのに
ちょうどいい媒体だと感じます。


急に世の中が変わるわけではありませんし、
急いているわけでもありません。


それに共感できる人がたくさんいるわけでもありません。


だからといって楽観的とは言い難く、とても悲観的に考えています。


一人の個人が考える。
それだけしかできないけれど、
それがいつかどこかでなにかに結びつく。
と思って日々過ごしています。

「イタリアの詩人たち」 ディーノ・カンパーナ



「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社


ディーノ・カンパーナ 1885-1932


「オルフェウスの歌」 ≪夜≫冒頭一部


  赤い城壁と塔の聳える、焼けただれた八月の無限の平野に、
  緑にうねる涼しい丘陵を背にして、焦げて立ちつくす古い町をぼくは
  思い出す。干上がって鉛色に澱む、泥の川にかけられた橋のアーチが、
  空間に残す巨大な空白。岸辺には、黙したジプシーたちのくろぐろとした 
  影がちらつく。遙かな葦の繁みの光る中には、若者たちの遙かな裸体の
  フォルムが。ひとりの老人のプロフィール。ユダヤ風の髭。不意に、
  死に絶えた水の中から、ジプシーの女たちと歌が。声を喪った沼の中から、
  単調な原始の嘆きの歌が心を苛立たせ立ち昇る。いま、時の流れは
  停止する。


  この第一部≪夜≫は16の短章から成っていて、
  第二部は3章から成り、
  第三部は1篇のみで構成されている。


  この冒頭だけでは、語り手の逞しさや、心の繊細さや、
  ロマンティックで叙情的なイメージ、
  重ねた旅という人生の一部の詩をお伝えすることはできません。


  
  カンパーナは精神分裂病者で、若いころには世界各地で
  様々な仕事を経験していたようですが、
  晩年は長く精神病院で暮らしていたそうです。
  生前にまとめられた唯一の詩集が「オルフェウスの歌」で、
  散文詩といくつかの韻文詩で成り立っているとのことですが、
  散文詩が高く評価をされているのに対し、
  韻文詩は詩法が独自の完結した形式を持っていないと、
  須賀さんは述べています。


  “彼の散文詩の緊迫した、たたみかけるようなリズムのうねりに
   貫かれた、密度の濃い、たましいの夜の世界には一種の
   怪しい美しさがある。それは、一つの怪しく荘厳なイニシエーションの
   儀式を経たもののように、われわれは思わず未知の領域に
   誘い込まれる。
   たましいの夜の記憶は、また、旅、漂泊、あるいは遍歴の道程の記録でもある。”
   
  須賀さんの評をp130から書き出してみました。
  この言葉が一番ぴったりする気がします。


  とても男性的で、夢と現実が交錯しているような、
  不思議な感性だと思います。
  これらの言葉が言わんとしていることを、察知できれば、
  もっと味わうことができるのに、と
  夢見るのは好きでも、単純で現実的な私は思ってしまうのでした。

2014年8月14日木曜日

プリマの引退

バレエ界の至宝、シルヴィ・ギエムが引退するそうです。


バレエに疎い私が反応したのは、
もう30年近く前、初めてバレエに反応したプリマがギエムだったからです。


モダンなスタイル、長い手足、立ち姿だけでも、
素人が見て、尋常ではありませんでした。


いつまでも現役で踊り続けるのだろうと勝手に思い込み、
いつか生で観ることができれば、と高い棚の上にしまい込んでいました。


その彼女が引退する。
とても長い時間が経っていたのでした。


素晴らしいバレエを世界中の人々が鑑賞し、
堪能させられた、であろうギエムに、
感謝の念が沸き起こった夜です。

仕事の合間に「本屋好き」

お盆休みの会社も多いようですが、
仕事によってはお盆も関係なくお仕事の人も多いのでした。
電車も動いているし、コンビニも銀行も郵便局も開いていて、
ダイヤだけが土日用のお休み気分です。


お盆はなるべくお休みを取っているのですが、
今年は出勤して正解でした。
新プロジェクトの取引先のぐいぐい型の担当者から、
押せ押せの依頼があったり、
しばらく手をつけていられてなかった仕事の山を崩していったり、
郵便局へお手紙をどっさり持ち込みをしたり。


郵便局での仕事は30分ほど時間がかかります。
その間に小さな本屋さんをのぞいて、
「BRUTUS」の特別編集「本屋好き」を購入しました。


日本各地の楽しい新刊本屋さん、古本屋さんが目白押し。
特徴を打ち出した本屋さんが人気のようですね。


本屋さんは大好き・・・といいつつも、
好きな文芸書や人文関係の本、文庫が充実していること・・・
の条件を満たしていないと、なかなか落ち着きません。
なので、足を運ぶ本屋さんは自然と決まってきます。


ずいぶん前に東京は神保町中心に本屋さんめぐりをしたことがあります。
でも慣れない本屋さんでは、丁寧に本を見ることができず、
たいした成果を挙げることができませんでした。


この「本屋好き」で取り上げられている中で、
京都の恵文社一乗寺店は何回か訪ねているところです。
私の好みにもぴったりした本がありますが、
古本以外は手持ちのものが多く、お買いものまでは至りません。


古本は実に出会うのが難しいですね。
amazonで割り切って買うこともありますが、それはたまのことです。
個人的には大阪市中央区日本橋の天地書房で
掘り出しものが時々見つかります。
でも・・・しばらくごぶさたです。


好きな本屋さんばかり、ぶらりぶらりと歩き回って、
手に入れた宝物を、喫茶店で広げる。
本好きにはたまらない瞬間ですね。

2014年8月13日水曜日

興味深い読み屋・・・都甲幸治さん

こちらでも時折ご紹介している堀江敏幸さんのサイト「レミントン・ポータブル」。
運営されている齋藤氏が、先日行われた都甲幸治さんと堀江さんとのトークライブを
レポートされています。


都甲幸治さんは現在早稲田大学で教壇に立たれているそうで、
堀江さんの同僚になるわけですね。
今回は都甲幸治さんが「狂喜の読み屋」 共和国 という本を出された記念イベント
だったそうです。


齋藤氏のレポートを読んでみると、
都甲さんってこんな人なんだ!と驚かされることばかり。
とても真面目で精力的で前向きな方のようです。
読書、翻訳、読解についての基本姿勢は、
お二人とも同じくされていて、興味深いところ。


英文学の都甲さんの翻訳の代表はブコウスキーの「勝手に生きろ!」。
これは私も読んではいないものの、よく知ったタイトルです。


それに「狂喜の読み屋」とは、なんて楽しいタイトルでしょう。


というわけで、大きな本屋さんにて、早速購入してみました。


して、急いでまえがきを読んでみます。


大学で文学を専攻してから、
翻訳を始め、読み屋という仕事を始められます。
そして読むということがいかに難しいことであるか、
翻訳とはどういうものであるかを痛感されるのでありました。
そこで、あらためて英文学を探求すべく大学に戻られ、
大学教師の道を進まれている・・・ということ。


海外文学を読んだり、翻訳を試みられている方には周知のことなのでしょうが、
言葉というものはとても奥が深い。
簡単に他の言語に置き換えることはできないのでした。


私は原書にあたったりすることがありません。
それは、あまりにも難しいことだと承知しているからです。
と、堂々と言い訳して、心で泣いています。
原書をひも解けば、さらに読書、読みの深みを味わえ、楽しめる、
であろう、と思いつつ、
知能と能力と努力と無縁の私はこのとおりであります。


個人的には現代の英文学にはあまり関心が無い・・・というか、
フィーリングが合わない(古い言葉ですね)ので、
読みませんが、ピタリとはまる作家と出合えれば幸せでしょう。


ほぼ同世代と言っていいでしょう、都甲さんの努力と進化のたまものである
この批評集「狂喜の読み屋」、そういった視点でもって、
読んでいきたいと思います。

2014年8月12日火曜日

人出は少なくて

今日はまたまた京都へお出かけして、
「バルテュス展」を再訪してきました。
その話はまた後ほどいたします。


後はまたまたオー・タン・ペルデュにてランチを。
贅沢かな、と思いましたが、
次に来るのは一年くらい後になるだろうし、と、
バランスの良い美味しい食事を満喫。
せせらぎの聞こえる景色のよいテラスにて、
すずめさん達といっしょにのんびりしました。
テーブルの上どころか、お皿にまで乗ってくるのですが、
すずめさんにちょうどよいものが無くて、
ピィピィ言ってはりました。


久しぶりに国際近代美術館の売店ものぞいてみました。
ここには楽しいグッズが色々あります。
竹久夢二の猫の付箋と、
定番のアンドレ・ケルテスの葉書を数枚購入。


それから京阪特急に乗って、
爆睡して、
大阪へ。


今日は診察日なのでした。
時々お腹が痛くなる以外は順調とご報告。
確かに仕事等で突発事件があったりしましたが、
精神的には落ち着いております。
お薬を少しずつ減らしていきたいですね、という話でありました。


待ち時間には 「だから日本はズレている」 古市憲寿著 新潮新書 を読了。
あえてお話する必要はない、と思われる内容です。
たぶん30歳~50歳くらいの人が感じていることが、
事実の裏付けをしながら書かれています。
爆笑する人もいるそうですが、
確かに失笑する部分も多いです。
読みやすい、データもある、というところで、
社会人なら目をとおしておくと、
知識としてインプットするのに最適かと思われます。


美術館こそ人は多かったのですが、
電車も空いていて、
病院も待ち時間が少なくてすみ、
入ろうとしたお店も夏休みのところがあったり、
帰りのバスはガラガラで、
そうか、お盆休みだ、とようやく納得したのでした。
街が好きなのに、人ごみは苦手なので、助かりました。


で、下賀茂神社の糺の森で恒例の“古本市”が始まったそうで、
また京都へ行きた~い、とうなっております。

2014年8月11日月曜日

夏休みの入口

今週は夏休み気分で過ごそうと楽しみにしておりました。
が、昨日の台風の影響で職場はてんてこまい。
まったく違うチャンネルにはまってしまった気分です。


たいしたことはしていないけれど、
帰るころにはしっかり疲れていました。


「イタリアの詩人たち」を広げて、
今日はカンパーナの項を読んでみたり。


本棚を眺めて、松浦寿輝さんの本をぱらり、ぱらりしたり。
知能や能力は全く違うことははっきりとしていて、
読むのも難しいのに、
どこか感性の部分に共感を感じる人です。
あまり近すぎると火花が飛びますから、
少しだけ近しい人がいいですね。


そういうと、大のごひいきの堀江敏幸さんには、
ぴったり共感できるという感じでもないのです。
同じものを見ていて、
少し角度を変えるとこんな風に見えるよ、と
語りかけられているような感じです。


須賀敦子さんは完全に指導役、先生といったところでしょうか。
読めば読むほど、教えられている、と思うことが多い。
なのでカンパーナについても、
小学生のような気分で読んでいました。


明日はお休みを取り、
出かける予定です。
出先で夏を感じることができるかな。

2014年8月10日日曜日

台風11号が通り過ぎました

昨日から今日にかけて、四国、近畿を縦断していった台風。
各地で大雨等の被害があった模様です。


幸いにして奈良は風雨は強かったものの、
避難するようなことはなく、
仕事場で、家で、おとなしくしておりました。


水害に遭われたところは、大変だと思います。
毎年のように、いろいろと被害がありますが、
精神的にも、肉体的にも、金銭的にも大変かと思われます。
手続き一つにしても、手間がかかるでしょう。


日本は国土が狭いわりに、災害が多いような気がします。
それも、逃げることができないような。


何かあったら、落ち着いて行動できるようにしたい、とは思います。
でも、いざとなったら、どうでしょう。
周りの人たちと助け合って、切り抜ければいいのですが。


自分用の災害用セーフティ・ネットを考えておくといいかもしれませんね。
(災害用だけでなく、仕事用、個人生活用、とか考え出すとたくさんあります)

「イタリアの詩人たち」 エウジェニオ・モンターレ



「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社


エウジェニオ・モンターレ 1896-1981


初めての詩


  昼下がりの野菜畑の 妬けつく塀のほとりで
  蒼白く呆けて 時の逝くにまかせる
  李や茨の茂みで 鶫が舌打ちし
  蛇が かさこそと音たてるのを ただ聞いている


  罅割れた地面に カラスエンドウのうえに
  赤茶けた 蟻の列が連なり
  ほんのわずかな 土の起伏にも
  ふと崩れ去り また縺れあうのを 窺っている


  深く繁った枝のあいだから ずっと遠くに
  海の鱗が 動悸うつのを じっと見ていると
  禿げた岩山の頂きから
  おぼつかない 蝉の軋めきが 立ちのぼる


  眩しい太陽の 光のなかを行くと
  悲しい驚きに襲われ
  いのちと そのつらい営みの すべてを感じとる


  尖った壜の破片を埋めこんだ
  この石垣の道をたどるあいだに


リヴィエラ海岸にあるモンテ・ロッソで書かれたこの処女作は、
のちに「烏賊の骨」という名の詩集に収められる。


この項で、須賀さんは数を多くの作品を取り上げながら、
モンターレの詩を分析し、批評し、
彼の書く作品がどのように変化していったのか、
細かく書かれています。


須賀さんの評を読みながら、
ああ、そういことか、とどうにか理解に努めるという程度ですが、
ある種閉鎖的、内向的でありながら、
生における一瞬の煌めきや、
この先の未来にむけて視線が向けられていることに、
人間らしさを身近に感じられるような気がします。
でも、難しいです。はい。


モンターレの名を知ったのは、
河島英昭さんのエッセイ「イタリアをめぐる旅想」平凡社ライブラリーでした。
もう20年くらい前のことです。
レ・チンクェ・テッレにひどく憧れて、
地図を探してみたり、イタリアの旅行ガイドを調べてみたりと、
このエッセイを読んで、妄想は膨らむばかりでした。
このようなエッセイを書かれる人が好まれる詩人ならば、
きっと何か感じるところがあるだろうと、
モンターレについても、とても憧れがありました。
でも、難しいです。はい。


今では、ネットで検索すればレ・チンクェ・テッレの地図も出てきますし、
写真で眺めることさえできます。
隠れた名所として、訪れる人も多いようです。
でも、私の心の中には、ずっと昔に河島さんが訪れたイタリアが
そのまま残っています。
なんとなく、自身がその地を訪ねることはないような気がしますが、
それでいいのです。
言葉で再構成された書き手が見た風景、土地、街・・・が
私の中で形成され、彩られることで、いったん終結しているような
気がしています。

2014年8月8日金曜日

理解を越えている



西アフリカではエボラ熱が猛威をふるっています。


アメリカがイラク北部への空爆を開始。


ガザでの和解は結ばれず。


笹井氏の自死。


佐世保で起きた高校生の殺人事件。


タイでの代理母の出産と遺伝子上の実親の考えの相違。


毎日、理解を越えるニュースが入ってきます。


一人、頭を抱えてしまいます。


どうしたらいいのか、ではなく、
どのように受け止めたらいいのか、
混乱しているのです。


明日は台風ハーロンがやってきます。
皆様、くれぐれもご注意ください。

2014年8月7日木曜日

行ってみたい「あけぼの子どもの森公園」

埼玉県飯能市に「あけぼの子どもの森公園」という
まるでムーミンたちが住んでいるかのような公園があるそうです。


今年はムーミンの作者トーベ・ヤンソン生誕100年。


ということで今日の朝日新聞に紹介されていた公園です。
  http://www.asahi.com/shopping/travel/SDI201408052400.html?iref=comtop_list_sho_n01


ヘルシンキには本格的なムーミンたちの村があるそうです。
もちろんそちらも気になりますが、
レポートを見ていると「あけぼの子供の森公園」も素晴らしいところのようです。


とてもきっちりとしたルールがあるようで、
それを守れば、子供たちが走り回っても安心、という場所のよう。


緑も深く、大人たちがゆっくりと憩うにもよさそうです。


行ってみたいとおしりがうずうずしています。
が、埼玉県・・・遠い・・・です。

2014年8月6日水曜日

「イタリアの詩人たち」 ジュゼッペ・ウンガレッティ



「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社


  ジュゼッペ・ウンガレッティ 1888-1970


  「静けさ」 1929


    葡萄は熟した 畑は耕され
    山が つと 雲から離れる
    
    埃っぽい夏の鏡に
    鏡が落ちる
    
    おぼつかない指にはさまれて
    明るく 光っている
    遠くで
    燕たちと いっしょに
    もう これきりの 苦悩が 去っていく


須賀さんによると、
  酷暑の記憶は、しかし、鏡をくもらせ、心には傷が残る。
  ほんとうに燕たちが、なにもかも持ち去ってくれるのなら、どんなにいいだろう。


  滲み出すような悲しみの予感が、かくされた襞に似て、詩人の内面に重なってゆく。
  ペトラルカの透明とレオパルディの深い哀しみが、執拗につきまとい、
  行間を埋める。 
  若いとき、私たちは、自分の人生を選び、友を選び、悲しみの種類までを選ぼうと
  する。そして多くの場合には、それが叶えられたと信じた。しかし、ある日、
  まったく突然に、まるで自分に覚えのない悲しみが襲いかかり、感性も理性も、
  そればかりか、最も平凡な日常の行為までをも、呆けさせてしまうのだ。(P63,64)


この中期の作品には、哀しみの予感のようなものがみられ、
人の心をうつ。
その後、ウンガレッティはさらに悲しみに襲われることとなり、
少しずつ歌われる詩も変化していく。
そして晩年にあっては、幽閉された人物かのような詩を書いている。


とは、私の感想です。
ここまできても、あいかわらず、詩は苦手。
言葉がとても重くのしかかり、とてもつらく感じられます。


それに、形式などに疎いため、詩の持つ価値が今ひとつ理解できません。
ただ、ただ、読んでみて、しっくりくるか、どうか。


須賀さんはウンガレッティで博士論文を書かれておられていて、
どのような内容なのか、少し関心があります、が、
須賀さんは子供のころから、詩を好まれていて、
カトリックの学校で英詩をかなり読み込まれているようですから、
私のような無知にはきっともったいない話でしょう。

夏の日の水曜日

毎日暑い日が続きます。
四国などでは台風の影響も大きいようで、大変です。
ところによっては天気も不安定なようです。
奈良でも急に雨が降ったりしています。


そんな今日は朝から歯医者さんへ。
痛くないクリーニングをしてもらいました。
夏休みとあって、小児歯科ですから子供さんもいて、
にぎやかでした。
小さい人は目が離せませんね。


午後はたっぷり昼寝をして、
おやつの後はお掃除。


夜ごはんに夏野菜たっぷりに、
分厚い豚さんをいれた煮込みをつくりました。
夏野菜は、家でとれたミニトマト、ナス。
それからかぼちゃ、ズッキーニ、オクラ、アスパラ、
パプリカ、きゃべつ、にんじんと盛りだくさん。
ガーリックとオリーブオイルでカットした豚さんをしっかりソテーして、
少しのブイヨンを入れて、ル・クルーゼの蓋をしっかりして、
ゆっくり煮込みました。
いつもながら野菜の洋風煮込みが好きな私です。


のんびりできたので、
かえって本を読むのがおっくうになっています。
心地よい緊張感があるのが一番いいのかもしれませんね。

2014年8月5日火曜日

ジャン・フォートリエ

現在、豊田市美術館で開催中のジャン・フォートリエ展。
8月9日には、堀江敏幸さんによる講演があるそうです。


フォートリエは私にとって共感できる画家のひとりです。


20数年前に10点ほどを観る機会がありました。
どれも重く心に響く作品でしたが、
中でも「黒の青」。
その時の心中をそのまま描かれているようで、
見入ってしまいました。


写真などではわかりにくいのですが、
フォートリエは色調がとても微妙で、
実際には絵の中に溶け込んでいきそうな深い色です。
「黒の青」も青が濃く濃く、
引き込まれるようでした。


もっと昔々、
カンディンスキー展を観ていたときのこと。
「円の習作」という作品の目の前で立ち止まってしまったことがありました。
心の宇宙の中に、私の心の様々な形が浮かんでいる!
若い頃のこと、とても単純に嬉しくなって、
長い間は、私の心は「円の習作」だと思い込んでいました。


でも、心の様子というのも変化していくのですね。
フォートリエの名前を再び目にして、
あの時は「黒の青」のようだったと思い返し、
では、今はどんな様子だろう・・・と思ったりしています。


そんなフォートリエの絵との出合いはありましたが、
その人となりについてはあまり知りません。
堀江さんがどんな内容の講演をされるのか、
とても関心がありますが・・・豊田市美術館ってどこだろう・・・?

「イタリアの詩人たち」 ウンベルト・サバ


「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社


ウンベルト・サバ 1883-1957
  
   「ユリシーズ」 1946
   
    若いころ おれは ダルマチアの
    沿岸で 海を渡った。 波がしらに
    小さな島々が 見えかくれして まれに
    鳥が一羽 獲物を狙って 羽を休めた。
    藻に被われた 島々は ぬるぬるして
    エメラルドのように 太陽に燦いた。 満ち潮と
    夜が すべてを消し去ると 風下の
    帆は その陰険な陥し穴を避け
    はるか沖合に はためいた。 今日
    おれの王国は あの NO MAN'S LAND 港は
    他人のために 灯りをともし まだ 意地をはる
    精神と 傷だらけの人生への 愛が
    おれを 沖へと 突き返す


          (「地中海」より 1946)


イタリアの北東の端にぽつんと離れたトリエステに、
ユダヤ人の母を持って生まれたサバ。
生地トリエステとユダヤの血に愛着を持ったサバ。
なので、トリエステという街がどういうところであるのか、
少々知識が必要でしょう。


初期の詩は愛情に包まれた言葉たちがやさしく語りかけています。
人に寄り添うことのできる、苦しみと哀しみを知っている者の言葉。


須賀さんは無くなった夫とともにサバをとても愛していたそうです。
その話は須賀さんの本に登場します。
だからきっと大切なペッピーノと大好きなサバとトリエステは、
しっかりと結びついていたのでしょう。


ここではそのような表情はあらわさず、
冷静な分析がなされています。


 このトリエステ生まれの詩人が、ロマンチシズムや写実主義の影響を
 脱するのが、他の作家たちに比べて晩かったという意味では、この批判は、
 まったくの的外れとは言い切れない。サバはこの誤解をとくために、
 満々たる自信をもって二つの武器を用意した。
 レオパルディの流れを汲む純粋なリリシズムと、
 正調な見事な韻律とがそれである。


そこへサバの姿勢と生き方とが重なって、


 彼の作品は、深い心の痛みとは反対に、否、心の痛みを勇気をもって
 正面から見据える者にだけ与えられる、あの奇蹟的な力によって、
 重い果実のように円熟し、彼の個性は確かな普遍の世界を克服していった。


と須賀さんは書かれています。


詩が苦手な私でも、サバの詩は染み入るような味わいがあると、
感じられ、その分親しみを覚えることができました。


みすず書房からは「ウンベルト・サバ詩集」が須賀さんの訳によって出ています。
こちらはまた訳に違いがあるそうです。
他の詩も読んでみようかな、と思っています。

2014年8月3日日曜日

今日はなかったことに

本日の目覚めは快適だったものの、
その後はこくんこくんと寝てばかり。
 


夕方には久しぶりのお腹激痛がやってきて、
3時間ほど苦しみまして。


珈琲もほとんど飲まず、
本も一ページも開かず、
大好きなラジオも聴かず、
ほとんど寝ておりました。
疲れていたようです。


今日はお話したいことがいっぱいあったので、
残念ではありますが、
なかったことにしてください。


では、おやすみなさい。

2014年8月1日金曜日

新しいプロジェクト

この秋から新しいプロジェクトが導入されることになっています。
これまでは商談段階だったので、ピンときませんでした。


今日は相手方の担当者が来社されて、
ついに実務レベルのお話のスタートです。


こちらはI課長と私の2人で対応しています。
上司の立場の話と一社員の私の話は噛み合っているのでしょうか?
会話の様子をみながら、メモしたり、
いっちょまえにちょこちょこと口をはさんだり。


数時間みっちりと話し込んで、お見送りをすると、
もうぐったりしてしまいました。


で、内容はというと、あれこれ話したので、頭の中がこんがらがって。


課長に「今日の打ち合わせですが・・・」と話を切り出せば、
「わかる範囲内で、まとめといて~」とお返事が。


私はおまけ感覚だったのですが、
これはちゃんとまとめなければなりません。
そして後に自分たちの仕事に活かせるような流れをつくりたいところです。
新しく事を始めるのなら、これまでの見直しもできるでしょう。
いいチャンスだと考えて、取り組んでいこうと思います。
と、気持ちだけは大きく!

8月になりました

毎日暑い日が続きます。
雨もやってきません。
ちょっと油断すると身体が重く、だるくなってしまいます。
外に出る時も気合を入れておかないと、
暑さに参ってしまいそうです。


今日は朝から会社の外回りのお掃除。
着替えを一式、化粧品を一式持ってまいります。
この日は午前中は身体が火照って仕事になりません。


さて、今日から8月です。
イタリア月間です。
予定の本を机の上に積んでみましょう。
気分はモンテ・ロッソ、海が見えるつもりで、
避暑に行ってきます。