今日は185ページまで。
放浪と名づけられた第一部を終え、
蟄居という名の第二部に入ったところです。
アンリ=マクシミリアンも武人として生涯を閉じ、
ゼノンも各地を巡った旅を終えて、
ブルージュに戻ってきました。
ゼノンは医者として生活を営んでいますが、
禁書の著者として追われる身を隠しています。
ユルスナールはゼノンのことを
まるで自分自身を投影したかのように描いています。
ゼノンの感じること、考えることは、
血の通った人間として実在しているかのようです。
“自分自身もはや考えることもなかったあの子供、
今日のゼノンと同一視するのが当然であると同時に、
ある意味では馬鹿げてもいるあの幼い子、その子を
彼のなかに認めるほどよく覚えている人がいるのだった。
そう思うと、いまの生活を送っている自分に気持ちが
励まされるように思えた。”
ユルスナールの素晴らしい点はいくつも見られますが、
そのうち、表現の美しい多様さに魅了されます。
断章の中において、平凡な表記で終わってしまうものはありません。
豊かな創造による例えなどが優雅に盛り込まれています。
“狭い控えの間にイタリアからもたらされたものが掛けられていた。
鱗状の枠に縁取られたフィレンツェ製の鏡で、その枠が、
蜂の巣の六角形の穴にも似た、少しふくれ上がった二十個ほどの
小さな鏡からなっており、・・・パリの夜明けの灰色の光のなかで、
ゼノンはその鏡に映った自分の顔をしげしげと見つめた。・・・
いままさに逃亡せんとしているその男は、ギリシアの人デモクリトスの
仮説、つまり一連の囚人哲学者が生きかつ死んでいく同一の世界が、
一連のものとして無限に存在するという仮説を思い出させた。
その幻想に彼は苦々しい微笑を浮かべた。鏡に映った二十の小さな
顔も、それぞれが自分のために同じ微笑を浮かべていた。
やがてそれらが顔をなかばそらし、ドアのほうに歩みよるのが見えた。”
綴られる言葉に注意を払って、何を意図しているのか推察しながら、
物語の動向に気を配っていると、あっという間に時間が経っていきます。
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