2014年8月15日金曜日
「イタリアの詩人たち」 ディーノ・カンパーナ
「イタリアの詩人たち」 須賀敦子著 青土社
ディーノ・カンパーナ 1885-1932
「オルフェウスの歌」 ≪夜≫冒頭一部
赤い城壁と塔の聳える、焼けただれた八月の無限の平野に、
緑にうねる涼しい丘陵を背にして、焦げて立ちつくす古い町をぼくは
思い出す。干上がって鉛色に澱む、泥の川にかけられた橋のアーチが、
空間に残す巨大な空白。岸辺には、黙したジプシーたちのくろぐろとした
影がちらつく。遙かな葦の繁みの光る中には、若者たちの遙かな裸体の
フォルムが。ひとりの老人のプロフィール。ユダヤ風の髭。不意に、
死に絶えた水の中から、ジプシーの女たちと歌が。声を喪った沼の中から、
単調な原始の嘆きの歌が心を苛立たせ立ち昇る。いま、時の流れは
停止する。
この第一部≪夜≫は16の短章から成っていて、
第二部は3章から成り、
第三部は1篇のみで構成されている。
この冒頭だけでは、語り手の逞しさや、心の繊細さや、
ロマンティックで叙情的なイメージ、
重ねた旅という人生の一部の詩をお伝えすることはできません。
カンパーナは精神分裂病者で、若いころには世界各地で
様々な仕事を経験していたようですが、
晩年は長く精神病院で暮らしていたそうです。
生前にまとめられた唯一の詩集が「オルフェウスの歌」で、
散文詩といくつかの韻文詩で成り立っているとのことですが、
散文詩が高く評価をされているのに対し、
韻文詩は詩法が独自の完結した形式を持っていないと、
須賀さんは述べています。
“彼の散文詩の緊迫した、たたみかけるようなリズムのうねりに
貫かれた、密度の濃い、たましいの夜の世界には一種の
怪しい美しさがある。それは、一つの怪しく荘厳なイニシエーションの
儀式を経たもののように、われわれは思わず未知の領域に
誘い込まれる。
たましいの夜の記憶は、また、旅、漂泊、あるいは遍歴の道程の記録でもある。”
須賀さんの評をp130から書き出してみました。
この言葉が一番ぴったりする気がします。
とても男性的で、夢と現実が交錯しているような、
不思議な感性だと思います。
これらの言葉が言わんとしていることを、察知できれば、
もっと味わうことができるのに、と
夢見るのは好きでも、単純で現実的な私は思ってしまうのでした。
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